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平成文学についての概論

こんにちは。
海藤です。


今年は平成という時代が終わる年ですが、人生の大部分を平成の中で生きてきた身としては忸怩たる思いがありますので、平成の文学について書かせていただきたいと思います。


平成文学についての専門書はもう少し後になって出てくるのでしょうが、大まかにいって、平成という時代の文学はマスメディアとの融合を経て、その後で立ち位置のようなものが分からなくなっていったように感じられます。芥川賞受賞作なども昭和の末期は三浦清宏「長男の出家」などの話題作がまだありましたが、平成からは純文学というものの志向するものがやや曖昧になり、昭和の頃のような超然とした、得体の知れない大きなものに立ち向かうような、勇ましい感じは減退していったのではないでしょうか。


大学生の頃の講義でバブル期の短歌について教わったことがあります。学生運動が活発だった頃の、人間の暗部を描く短歌(寺山修司なども当てはまるかも知れません)から、昭和の末期になりバブルが到来した時に、「そういう気分を歌いたい」というライトバースな歌風に変わっていったということでした。それはある意味、昭和の頃に連綿と続いていた日本人の全体主義を象徴するような文化から、「個」を重視してひたすらそこを充足させるような、エゴイスティックでそれでいてカジュアルな表現に向かっていったということなのかも知れません。


村上春樹がカポーティやフィッツジェラルドといったアメリカ文学の香気に感化されたのとは違い、大部分の作家たちは「全」から「個」へと移行していく時代の中で、思い切り表層的になってしまうべきか、基本に回帰するべきか方向性を模索して書いていたように思うのです。又吉栄喜「豚の報い」や松浦寿輝「花腐し」など、土着の文化や幽玄の世界を現代風にアレンジした作品がある一方で、松村栄子「至高聖所(アバトーン)」などのように「何かに向かっている」ということをライトな筆致で描くのに徹したような作品もあります。やはり平成時代の文学というものは、「全」か「個」か、「芸術」か「物語」かというその二極を揺れ動いていたようです。


「芸術」か「物語」かという問題でいうと、芥川賞と直木賞の受賞作の、作品の志向性というものが大きく弁別されるようになったのも平成という時代です。昭和の頃のような超然としたエネルギーがうやむやになっていく純文学を横目に、大衆文学の方は耳目を集めるようにひたすら「物語性」の回復に努めていった感があります。


平成の時代になり、アニメ文化やダンス文化、流行りのミュージックや携帯などのスピーディーに楽しめてしかも華やか、というものが隆盛になっていく中で、本を売らなければならないわけだし、どこまで超然としていていいのか、と純文学の世界は戸惑いはじめていたようです。一方、大衆文学の方は物語性を強みにしたりイラストレーターに描かせた美少女キャラを表紙にしたりと、商業主義という方向性を厭わなかったわけです。それでも浅田次郎「蒼穹の昴」が大ベストセラーになっていた頃と比べると、いくらか翳りは出てきたのかも知れませんが。


昭和文学が六十年以上という激動の時代の中で全体像を見つめたカオスだとしたら、平成文学は豊かさの中で軸の置き場を見失い、あちこちに精神が分散されていったカオスなのかも知れません。でもそれは決して悪いことというわけでもなく、自由な時代の中で「個」の横溢と閉塞を味わうことで、表現のバラエティーが豊富になり、昭和の頃と比べて十人十色の様相が濃くなっていったということでしょう。


私が上京した直後の時代、世の中はちょっとした教養ブーム、文学ブームでした。学生の間でもどれだけ現代文学に通暁しているかが競われたものです。そうした二十一世紀になってからの時代、綿矢りさ「蹴りたい背中」が二〇〇四年に芥川賞を受賞したのも、町田康や舞城王太郎の大活躍も、かつての「太陽の季節」の時のように文学の世界もタレントを生み出さなければならないということへの帰結だったのでしょうか。


しかし二〇一〇年代に入ってから、そうした「個」の横溢というのにも翳りが見えてきたようです。早くから芥川賞を受賞した作家が記者会見で斜に構えたような態度をとると、昔のように「芸術家の証し」として評価されるのではなく、「空気の読めない人」として見られるようになっていました。


芥川賞でいえば、沼田真佑「影裏」や又吉直樹「火花」などがカオスの名残りなのでしょうが、小説家がバラエティー番組に出て自著の宣伝をする昨今、新しい元号になってからの文学は少しずつ全体主義に回帰し、「空気の読める」ものが求められていくのかも知れません。

2019年1月10日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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