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不条理文学講読

こんにちは。
海藤です。


今回は目先の変わったところで、いわゆる「不条理文学」について書かせていただきたいと思います。


不条理が機軸となって展開されていく文学というのは、そもそもそれが最初から意味を放棄しているのか、それとも深い理解を期待しないというスタンスなのか、往々にして意見の分かれるところです。かつて町田康がNHKのテレビ番組で、パンク音楽との出会いによって「意味を持たない表現」に目覚めた旨のことを語っていましたが、それなどは表現者の自己韜晦の姿勢が具象表現の有限性に辿り着く、ということを示唆するものでしょう。あるいは自己に内在するものを吐き出したいけれど分かられたくない、というよくある二律背反的な思いなのかも知れません。


不条理文学というものはオーソドックスな哲学などによって分析されるものが多いのですが、フランツ・カフカ「変身」や、アルベール・カミュ「異邦人」などがその好例でしょう。作中の巨大な虫へのメタモルフォーゼや、殺人の動機を「太陽のせい」と答えることといった不可思議によって、浸透圧のようにじわじわと、しかし確実に読者の心理に「意味とは異質な何か」が迫ってくるのです。こういうことに対する分析は作者の術中にはまるのかも知れませんが、そうした文学の中の不条理の核は、フロイト心理学を想起させるものがあります。イド(それとしかいいようのないもの)が本能的なものを抱えて深い所に淀んでいるという意味において、自我や超自我といった「具象」と相容れない厳然とした不可侵のものを感じさせるのです。つまり「変身」や「異邦人」の機軸は、そうしたエス(イド)にも似た、「意味とは違う深層に内在する何か」とでもいいましょうか。


ここから不条理文学を少しずつ概観していきたいのですが、少なくとも作者にとっては整合性のあるリアリズムなのですから、そこらへんは斟酌しつつ考えなければなりません。


外国のものでいうと、ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」などは、その表現方式と文体において、殆ど理解を期待しないで投げつけるような冷然としたものを感じさせます。しかしその冷然さの中にも具体性に裏打ちされた寓喩や作為があるわけで、そういうものは極言すれば理解されないことに価値があるのかも知れません。曽野綾子さんが著書の中で、ジョイスのそうした姿勢を批判していたのが印象的でしたが。


シュールレアリスムという概念がありますが、そうしたメチエの方式はむしろ日本人作家の得意とするところでしょう。日本でのその萌芽は抽象小説などというものにあり、かなり古いところでは小田仁二郎「触手」といった作品があります。平成になってからの芥川賞受賞作品でいえば、川上弘美「蛇を踏む」や藤原智美「運転士」などが好例でしょう。そうした作品が外国のシュールレアリスムの系譜をどこまで踏襲しているのかは定かではありませんが、日本の文化の風土が欧米と比べてかなり独特であるため、日本人のトラディショナルな「曖昧さ」の精神に依拠するところが大きいように思います。日本の不条理文学は日本独自のものなのかも知れません。


「蛇を踏む」の中の蛇を踏んだら女性に変身したという寓意や、「運転士」の場所や時間軸が流動的な中である種の恐怖が現れ、しかし破綻をきたさないという構成などは、投げ出されていることに確実に意義があり、人間が絶妙なバランスの中で生きていることを実感させます。また、「奇妙な仕事」「鳥」といった大江健三郎の初期作品にも何か思弁的なものを超克した、「生」の鋭敏なリアリズムが感じられます。しかしそれを一種の実存、といってしまうと何かが完結してしまうという難しさがそこにはあるのです。大江文学に限っては、むしろそうした作中の不条理を臆測であっても探求していくことが有益なのであって、哲学との親和性について考えることは、補助的手段という「部分」に過ぎず、それが全てということにはなり得ないのでしょう。


最後に、先述した町田康について書きたいと思います。町田作品の「くっすん大黒」「けものがれ、俺らの猿と」「きれぎれ」といった「意味」を放棄したものには、勝手ながらどこかサルトルやハイデガーの実存哲学を思わせるものがあります。作中の登場人物たちは何かに向かっていくという宿命を持った対自存在ですが、ある種の自由の刑架によって、不条理で無軌道な対他存在の世界にのまれていきます。つまり町田作品を含め不条理文学全般が内包しているものは、人間の生態が不条理というものを孕んでいる以上、ハイデガーのいう「被投性」の現実の中で折り合いをつけたり探ったりしながら、自由と無限の恐ろしさの中でひたすら「投企」するといいうことの迂遠な開示が社会には必要であるということの示唆なのかも知れません。それが破綻をきたす性質のものではないことが、不条理文学に触れる有益性だと思います。


ここで述べたフロイトやサルトルやハイデガーの専門書は、買取り額も高いのでかなり高尚なものですが、いろいろな文学を読み解く鍵になるので、興味のある方は読んでみると面白いかも知れません。

2019年1月16日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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