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精神分析と人文学

いま現在、私の手元に昭和四十六年に初版が出た土居健郎「『甘え』の構造」(弘文堂)という本があります。端的にいえば、日本人の独自性という観点から、精神分析学的に様々な日本人の病理を探っていく一種の啓蒙書といった感じです。当時この本は革新的な日本人論ということで広く巷の話題になりベストセラーとなったのですが、特にユニークだったのが、「甘え」という概念によって日本人の神経症的なナイーブなメンタルを解析しているところです。後年、この土居氏の理論は様々な時代の変化によってその特殊性にに対する見方が変わっていくのですが、人文学や社会学の歴史に鑑みた時に非常に参考になるところがありますので、今回は「甘え」の観念を叩き台にして、土居氏の理論と人文学の世界との精神分析的な咬合、ということについて書かせていただきたいと思います。


二十一世紀に入ってから、日進月歩の様々な研究によって、精神病や不安障害、人格障害といったもののバックボーンや源流がどこにあるのかということが緻密に細分化されて開示されていきました。その中で最近では「甘え」が満たされなかったから病気になったとか、「母源病」とかといった古典的心理学の流れをくむような分析は衰退していった感があります。私が東京の大学で受けた講義では、まだ「甘えの欠如による機能不全」ということをもとに精神病理を教えるといった旧式なやり方が行われていました。それが時代が二十一世紀になったばかりの頃です。


しかし最新の潮流がどうであれ、文学者や芸術家などの「精神性」を体現してきた人々の心理の遍歴を思う時に、「甘え」という病理を軽視することが不自然のように感じるのです。大正時代の文学、特に谷崎潤一郎の初期作品などに見られる、じりじりするような鋭い神経の描写は、どこか根本的なものが満たされずに甘えの対象を求めて彷徨しているようなプリミティブなものを思わせます。谷崎の初期の「秘密」「悪魔」「異端者の悲しみ」といった作品に開陳されている病理には、安逸を得られない幼児のもがきがエクリチュールとして昇華されているような感触があります。また谷崎に限らず、芥川龍之介、宇野浩二、葛西善蔵といった大正期を代表するような作家たちにも、その文学性において逸楽(一種の甘え)を求めることと高踏的なスタンスをとることとのアンビヴァレンスが見受けられ、このこともやはり看過できません。これは太宰治や田中英光や坂口安吾といった昭和の作家たちにも波及するところがあり、彼らの人生の布置や構成などを見た時に、彼らが何かを喪失し、その代償として文士という形態で甘えてきたことに気づかされるのです。


何らかの喪失体験が母体としてあるのなら、吉行淳之介らの「第三の新人」の文学的営為の中にもそうした芽を見出すことができるのかも知れません。それと同時に、現代病といわず古い時代からあったであろう「満たされない甘え」という病弊が空気のようなものであることは、ネットワークや何らかのコミュニティ、ステータスや自己同一性などの「自己表白」を求めていく人間の心理を俯瞰した時に明白なのではないでしょうか。土居氏は幼少期の満たされなかった「甘え」への思いが、成人になってからの認知や価値観の歪み、精神の病や神経症といったものにつながるということを、「『甘え』の構造」の中で述べていますが、そうした傾向は経済が衰退してからの二十一世紀になってから顕著になってきたようにも感じられるのです。


ある意味、坂口安吾「いずこへ」や太宰治「道化の華」や田中英光「野狐」などに描かれているような甘えに基づいた自虐と退廃のアウトプットは、「母恋い」のような限定的なものに留まるものではなく、原体験としてヒューマンなものを喪失することの多かった時代の病理であったのかも知れません。しかし土居氏のいうような、甘えにとらわれ観念にとらわれるといった事象は、それが社会的に小康状態にあったような高度経済成長期やバブル期を経て、現代になってからよりパブリック、よりポピュラーな形で顕現してきたように思うのです。プリミティブな渇望ゆえの自己表白というものは、SNSやユーチューバーなどのある種の価値基準と表現方式の変革に如実に現れているようです。また、現代人の「甘え」の源流は、個別のものというよりは、社会的なものによる神経症気質にあるような感もあります。現代の生き馬の目を抜くスピーディーさが、大正文学やデカダンス文学の時のような手間のかかった吐露を良しとしないのも特徴です。


精神分析をよく引き合いに出したナイーブな作品で有名なサリンジャーは、「ライ麦畑でつかまえて」のラストで、主人公のホールデンを精神科病院に入院させています。現代社会の「甘え」の病弊の極北が、そういったことにならないでもっと安らかな方に向かうことが肝要なのでしょう。


ここで述べた大正文学の分析や精神分析の専門書はいろいろと出ていますが、先ずは現在入手できる土居健郎「『甘え』の構造・増補普及版」(平成十九年・弘文堂)から入ってみると面白いと思います。

2019年1月27日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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