サリンジャーをめぐる個人と社会の問題
こんにちは。
海藤です。
今回は趣向を変えて、アメリカの作家のJ・D・サリンジャーのことについて書かせていただきたいと思います。サリンジャーの作品で有名なものといえば、退学処分になった少年ホールデンがニューヨークの街を彷徨うデリケートな長編「ライ麦畑でつかまえて」ですが、野崎孝の旧訳と村上春樹の新訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とがありますので、読み比べてみるのも一興です。この作品が読み継がれてきたことによる日本でのサリンジャーの受容史としては、庄司薫の芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」が色濃く彼の影響を受けていたことや、村上春樹の初期作品が部分的にアメリカナイズされていたことなどが筆頭に挙げられるでしょう。また、代表作「ライ麦畑」が日本でも有名になったことで、日本においても主に若者たちの間で文庫化されている作品や専門書が派生的に読まれるようになり、アメリカ文学の研究者からも様々な角度からの広汎な解釈がなされるようになった印象があります。
サリンジャーの文学のルーツについて遡及していくと、「若者たち」「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」「僕はちょっとおかしい」などの初期作品に思い至りますが、これらの作品における太平洋戦争前後の若者たちの放縦さや、そうした環境をめぐる少年ホールデンの挑発的な態度といったものは異質であり強いインパクトがあります。そして、その作中の「挑発」はある種闘争心のない挑発であり、どこか無気力さを感じさせ、反抗している対象が社会なのか自己なのかと考えさせられるのです。もっとも読者に印象づけるそのカオスこそが、サリンジャーの面目躍如たるものなのかも知れませんが。作品の中で彼はフィッツジェラルドを敬愛していたことをほのめかしていますが、フィッツジェラルドの作品の「洗練」の中にある情動を、サリンジャーの生得的な感受性によって「鬱屈」した反逆に転化したということも考えられるのではないでしょうか。
サリンジャーが軍隊での過酷な戦争体験でトラウマを負ったことは多くの研究者が指摘しています。そして、「エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちにー」の作中で部分的に描かれる戦地でのメランコリックな精神や幻覚症状のようなものが、彼の作家としてのスタンスや創作態度に戦争が影を落としたことを象徴しているといってもあながち単純化ではないような思いがします。それだけ彼の作品は繊弱であり、昏迷している感覚が際立っているのです。
そうした戦争体験に根差したナイーブさが「鬱屈」につながっているのと同時に、彼の作品を読んで逆に照射されるものに、アメリカの根強い道徳観があることに気づかされます。アメリカには旧来からのキリスト教道徳と、それに基づく高邁なダイナミズムがあるといえます。西部侵略の時のスローガンともなった、マニフェスト・デスティニー(明白なる宿命)という言葉は、天分としての民族意識を象徴しており、現代のアメリカにもその系譜は受け継がれているといえるでしょう。つまり、初期作品や「ライ麦畑」を貫くものが、そうした高邁な精神風土の中にあって圧殺されそうになる「個」の情動、といったものである可能性があるのです。サリンジャーの諸作品が出版社や世間から非道徳的であると批判されてきたのも、突き詰めた見方をすれば、敬虔な道徳とモラルを求めるアメリカ社会へのアイロニカルな反抗が痛烈に描かれていたことによるのかも知れません。
そう考えていくと、ニーチェの「道徳の系譜」で述べられている「善い」と「悪い」の問題や、君主道徳と奴隷道徳の問題が勃然と思われたりもするのです。ニーチェの流儀に引き寄せていうのであれば、作中のホールデンやグラース家の人々の言動は一種の反動的な道徳なのではないでしょうか。新旧アメリカ社会ではモラルに基づいた高潔さと攻撃性が併存しているようなところがあり、反動・反駁を軸とした逆転の道徳によってそれらとアイロニカルな戦いを繰り広げることが、サリンジャー作品のテーゼであるといえるのかも知れません。そう考えると、ヘミングウェイやフォークナーなどのアメリカ的ダイナミズムとは違い、サリンジャーが人間の「個」の精神を穿ち、個人と社会の問題を浮き彫りにしていったのは、何となく日本的な感性という気もしてくるのです。
結局、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」「シーモアー序章ー」などのグラース家をめぐる作品や、それにつながる「バナナフィッシュにうってつけの日」「コネティカットのひょこひょこおじさん」といった好短編で描かれているものも、強圧的な道徳と自由闊達さが混在したアメリカ社会の縮図なのかも知れません。そうした個人と社会との神経衰弱的な関係を描いてきた中で、サリンジャーは「小舟のほとりで」という短編の中で、母と子のやり取りというセンシティブな形でユダヤ人作家としての矜持もちらりと見せています。そのような「個」や「単位」に寄り添うスタンスの中に、日本の読書人たちとの親和性があったということなのでしょう。「個」の深淵を見つめたサリンジャーの作品は、これからも多くの日本人に読まれていくと思います。