名編集者パーキンズを読む
こんにちは。
店長新井です。
雪が降ってくると神田の市場に車で行くのは大変になってきます。
とはいえこんな季節だと買取りの依頼も少なく、仕入れがなければこの商売は成り立ちませんので(皆様の買取りのご依頼をお待ちしております!)、市場には行かなければなりません。
そうなると多少経費はかかりますが、新幹線で神田に行くことになります。
私は普段の生活で本を読むことは非常に困難で、休みの日に本を読んでいるとプリキュアに変身した娘と戦わなければいけなくなったり、息子と機関車トーマスを歌わなければいけなくなったりしてそれどころではありません。
ですが新幹線の中ではなんと本が読めるのです!
私はこの驚くべき事実に気付いてから市場へ行く頻度も増えてきて、趣味が仕事につながる好循環(?)を実感。お仕事として成り立つ限りはこの形も大事にしようと思い始めました。
そんな新幹線の中で読んだ本が「名編集者パーキンズ(草思社文庫)」です。
本書は編集者であるパーキンズの伝記で、フィッツジェラルドやヘミングウェイ、そしてトマスウルフなどの作品をメインに手掛けた編集者としての話、彼らとのやりとりが中心となっています。
フィッツジェラルドの破天荒ぶり、ヘミングウェイの優等生ぶり、トマスウルフの情緒不安定ぶりがパーキンズを中心に描かれていて、アメリカ文学の裏側を覗いているような気がします。
彼らと小説についてやりとりし、時には内容や構成、ストーリーについても言及し、編集者というのはいったいどういった立ち位置なのかと不思議に思いながら読んでいました。
それはトマスウルフの作品について顕著で、彼はウルフにストーリーの案を与え、そして物語の構成についてもアドバイスし、二人かかりで小説を作り上げるような形が垣間見えます。
私の作家が作品を作る形として持っているイメージは、自分で作品の構想を練って、ああでもないこうでもないと原稿を作っては破りを繰り返し、そうこうしているうちにノリスケさんがやってきて「先生、原稿まだですか?」と部屋に入っていくも先生は磯野家で囲碁を打っている、でもなんやかんやで作品を仕上げる…というようなイメージです。
そこには作品は完全に作家のもので編集者が作品に入り込む余地はないのですが、そういったイメージを持っているのは明らかに私の知識不足が原因で、もしかしたら編集者とは作家と共に作品をディレクションしていく役割も担っているのかもしれないとも思い始めました。
そしてそれは作品への過剰なコミットへとつながる可能性もあり、しまいには作品が作家のものなのか編集者のものなのかわからなくなる…編集者とはそういったことが可能なくらい影響力を発揮することができる、そんな立ち位置にいるのかもしれません。
事実、作中でパーキンズがトマスウルフの作品に過剰にコミットしていると評論家に批判されるくだりがあります。
そしてそれはパーキンズは全力で否と答え、作中では一貫して「作品は100%作家のもの」というポリシーを貫き通します。
そのあたりの事実関係は私には知る由もありませんが、とにかく編集者とはそんな位置にいて、そして彼なくしてはフィッツジェラルドやヘミングウェイ、そして当然トマスウルフも文学界に存在することはなかったのかもしれないと思うと、その影響力は計り知れません。
近代アメリカ文学の裏側を覗き見ながら、編集者という立場について考えてみる、そんな感じで読んでいました。