シェイクスピア「夏の夜の夢」と実存
こんにちは。
海藤です。
今回はウィリアム・シェイクスピアの演劇「夏の夜の夢」について書かせていただきたいと思います。ルネサンス演劇の中に位置するこの作品は、四大悲劇を含めたシェイクスピアの全作品の中でも、ロマンティック・コメディというユニークで毛色の変わったものです。四人の若い男女の森の中での恋愛をめぐる珍妙な顛末を描いたもので、妖精の王と女王、妖精パック、ロバの頭の男などが織り成すファンタジックで軽妙な喜劇になっています。しかし、ルネサンス演劇という磁場を通してシェイクスピアが表現した人間の霊肉の一致・不一致の問題や人生の苦悩についての問題を考えると、一概にコメディとして片付けられないものが感じられます。
作中での人間の若者たちと妖精たちの夢幻の世界めいた中でのアイロニーやペーソスを思うと、そこには霊と肉、幽と明の混交という意味において何かシェイクスピアなりの含意が想像できます。演劇を含めた文学の表現の歴史を振り返ってみると、やはり霊と肉が不分明であり、ファジーなものと共存共栄していることに気づかされるのです。人間性についてのアウトプットである人文学というものには、首尾一貫している人間のスピリットの問題があります。それはどのような形式の芸術にも通底しているものであり、シェイクスピアも例外ではありません。少し目先を変えると、明治時代の文芸評論家・北村透谷は人間の肉体の面とは違う内発的なものに息を吹き込み、「内部生命論」を提唱しました。そのようなことはシェイクスピアの「マクベス」「リア王」といった悲劇の中の、人間の内的生命の衝突が人生の不条理を生み出すストーリー展開にも逆説的に見受けられます。また、喜劇における不条理をユーモラスに丸くおさめるという方法論からも、彼独自のシニシズムや諷諭が感じられなくもありません。
そもそもルネサンスの文化には後続の文化・芸術を包括する懐の深さがあり、極言すれば全ての時代にとって普遍的な、霊肉の問題に基づく人間主義が横たわっているのです。それは言い換えれば、人間性にとっての神話のようなものが存在するということです。先述した日本の北村透谷は身近な例ですが、芸術や文化の全般にわたったヨーロッパのロマン主義の潮流にも確かにそうした神話性はあり、それはつまり霊と肉についての人間哲学であり、もっといえば実存の問題でもあります。ルネサンスという大河の中でシェイクスピアが描いた人間の悲喜劇と、そこから生まれる本能的・感覚的な実存の問題は、フランスのロマン派作家たちの中にも表現の軸として存在していました。「夏の夜の夢」の幻想のような自由な精神の横溢は、ロマン派のヴィクトル・ユゴー、シャトーブリアン、ヴィニーも創出したものでした。教条的なものとは相反するロマン派にとっての精神の解放は、「夏の夜の夢」の中での霊肉の自由と本質的には同じです。しかし、シェイクスピアにしてもロマン主義にしても、理性と現実の皮相を描きながらも、単に理想に耽溺していたのではありません。ルソーの「告白」やシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」に見られるように、本能や感覚の難渋をしっかりと描いていたところが肝要だと思います。
「夏の夜の夢」の中の恋愛の喜劇的な側面と、人間や妖精たちのやり取りのすれ違いというものは、「ハムレット」をはじめとした冷厳なドラマを勘案した時に、自由を希求する人間的なものとそこから生まれる懊悩という意味において、しっかりとした寓意や皮肉を含んでいると思うのです。アメリカの作家のナサニエル・ホーソーンの短編に「若いグッドマン・ブラウン」というのがあります。その中では若い男がサバトに出かけて、近所の人たちが自分と同じようにそこに出かけていくのを見て、更に自分の妻の姿を見出します。そのような幻想なのか現実なのか分からない体験が描かれるのですが、これにしてもロマン主義的な、人間の霊肉における実存の問題についての流露でしょう。つまり、霊と肉、幽と明の両極を孕んだ実存の問題というものは、ロマンの色合いの濃い文化・芸術には通底しているのです。セルバンテス「ドン・キホーテ」などはシェイクスピアとは毛色の違う、痛烈で露骨な妄念を描いたものですが、これにしても人間の実存が幻想と現実、霊と肉の間で漂遊していることが表現されています。そうした「業」を肯定したものが、極めて人間的なロマンチシズムということになるのだと思います。
「夏の夜の夢」のラストで、妖精パックが述べる「この他愛のない物語は、ただ一時の夢のようなもの」という言葉は、シェイクスピアなりの、人間たちのさんざめく実像に対する諧謔であり、現実もロマンも鷹揚に受け入れるという気の利いた挨拶なのでしょう。そうしたスタンスには、やはりある種の実存の問題が集約されているのです。
シェイクスピア「夏の夜の夢」は新潮文庫などで手軽に読めますし、ちくま文庫から全集も出ています。たくさん出ているシェイクスピアについての専門書と併せて読むのも理解が深まって面白いと思います。