安岡章太郎「ガラスの靴」に見る若年層の心理
こんにちは。
海藤です。
今回は安岡章太郎の初期の名作であり、芥川賞候補作にもなった、「ガラスの靴」という短編小説について書かせていただきたいと思います。この作品は新潮文庫の「質屋の女房」に収録されています。
先ずこの小説の梗概を述べさせていただきます。猟銃店で夜番をしている学生の「僕」は、米軍軍医の中佐の家に散弾を届けに行き、そこで働いているメードの「悦子」と出会います。悦子から誘われ、「僕」は中佐夫妻が三月の間留守にしていることにより、彼女と電話のやり取りをしたり家の中で様々な子供じみた遊びをして戯れ合ったりします。接吻までしてしまい「僕」は悦子に対して急速に恋愛感情を抱くようになるのですが、一週間早く中佐夫妻が帰って来てしまい、この「夏休み」のような時間は終わりを告げます。その後、悦子が猟銃店を訪ねて来て、中佐夫妻がまた二日留守にするからと誘うのですが、「僕」は彼女が体を預ける意志がなかったことと、全くの少女であったことを知り、最終的に拒むような態度を取ってしまうのです。しかし、その後も「僕」は店の中で声のしない電話を取り、「ダマされている面白さに駆られながら」受話器を離さない、という内容です。
この小説は表面的な読み方をすると、若者の恋愛心理に対するブラックな味わいのある痛烈な皮肉、という感じがします。しかし、作中に内包されているものは、もっと社会的、心理学的なある種の「共同幻想」を肥大させ、誇張したもののようです。そうした若年層に特有の「共同幻想」や、作中の「楽園」めいた世界観に対する固執といったものは、全ての時代に普遍的な「観念」という思いがします。「観念」というのはこの場合、若者時代に固有の心理として、具象的な「結実」に向かっていくものではなく、楽園・パラダイスとして抽象的に縋る対象という意味での「観念」です。
作中の「僕」は若年層であり、社会心理学者レヴィンのいう「マージナル・マン」(境界人)という位置にいる存在です。共同体への参画がまだ現実性・客観性を持たないグレーゾーンにあり、しっかりとした足場を持っていない状態にあるのです。そうした時期に特有な心象が、「具体性」を持ったら何かが終わるという不安であり、モラトリアムの中での一種の幻想である楽園・パラダイスへの恋着です。「ガラスの靴」の主人公の獲得したもの、結果的に漂着した所は、心理学的な観点から見てみると分かりやすいかも知れません。主人公の「僕」は、悦子との蜜月のような逢瀬に対して「夏休み」という表現をして甘美な思いを抱いていますが、これはアンナ・フロイトのいう防衛機制である「理想化」でしょう。そして最後の方での店を訪ねて来た悦子に対する失望と拒絶は、極度に理想化されたものが自分の思惑と食い違っていた時の防衛機制、「否認」「脱価値化」であると推測できます。しかし多くの脱価値化がそうであるように、一度極端に理想化してしまって没入した対象に対しては、未練がましさや恋々とした態度が付きまとうのです。この作品のラストがそのことを象徴しています。
作中で「僕」が殊更に「夏休み」と表現する部分が肝であり、それは子供が夏休みの甘美な陶酔に溺れてしまい、夏休みの終わり頃に宝物を取り上げられるような絶望感を感じるということにも似ています。「ガラスの靴」は昭和二十六年の作品なのですが、この時代に若年層の心理の構造を皮肉るかのようなものが芥川賞候補になっていたことは面白いですし、現代の豊かな時代の若者たちに多い、モラトリアムと自意識に執着する心理とリンクするところがあるのも面白いです。具体化したら壊れてしまう楽園への恋着、パラダイスという「観念」にしがみついていたいという気持ち、これらが全ての時代の若者たちの共同幻想であるということは、ユングの分析心理学における「集合的無意識」という論点を想起させます。作中の「僕」や現代の若年層の「楽園への固執」というものは、本当の意味での社会意識に目覚めるまでは、無意識下にあるものであり、その虚妄・虚構性に気づくことはありません。ユングに引き寄せていえば、そこに若年層の無意識下における普遍性を感じるのです。つまり、ユングのいうイメージを発現する元型としての自己と対象に対する、根強い幻想がそこにあるということなのです。
「ガラスの靴」はそうした内実の伴わない表層的な理想化を皮肉った、ニヒリズム小説である可能性があります。ただ、この作品が発表された当時は、幻想に根差した理想化というものが若者時代の通過儀礼であった感じがします。昭和二十六年当時の日本人が早熟であったこととは違い、現代日本ではあまりにも玉石混交の情報が氾濫しており、特殊な夢を持つことや自己実現欲求がもてはやされるあまり、若年層が「楽園」から脱却できなくなっている傾向があるようです。「ガラスの靴」の、悦子との「夏休み」に対する思いが自己愛の裏返しであったとしたら、現代の若者心理もそうした思いの中に佇んでいたい願望という意味において、観念としての「楽園」を神格化するものなのかも知れません。それは自意識で練り上げた自己像であり、「こうなりたい」という夢なのでしょうが、対象やセルフイメージの理想化という「夏休み」が終わってからどう折り合いをつけるのか、そこらへんが若年層の心理における今後の非常に難しい課題だと思います。
安岡章太郎にしてもそうですが、こうした昭和の文学を読んでみることも、現代特有の固定観念を解きほぐす一助となるのかも知れません。