木山捷平「耳学問」ー深甚なる諧謔ー
こんにちは。
海藤です。
今回は木山捷平の戦後の「文藝春秋」に発表された短編小説であり、昭和三十一年下半期の直木賞候補作にもなった、「耳学問」という作品について書かせていただきたいと思います。
木山捷平は満州農地開発公社の弘報嘱託となって満州に赴任して、現地で終戦を迎えました。終戦後、満州にはソ連軍が進駐してきていて、この短編はその時の体験を基に痛烈な諧謔を交えて描いた作品です。先ず作品の梗概を述べさせていただきます。その当時の満州ではソ連軍が捕虜召集を行っていて、主人公の「私」も呼び出されるのですが、試問によって幸い不合格になります。その後、耳学問で暗記したロシア語でソ連兵士と会話が成立し、握手をしたりするのですが、街中で捕虜徴発をしていた満人巡査につかまり、何とかして逃げおおせるのです。その他にも、日本に帰されずにいるうちにてんぷら屋の行商人に落ちぶれたこと、幼児をおんぶしていれば街頭で捕虜になることはないので、同じ宿舎に住む女性に金を払って彼女の子供をおんぶして街中を歩いたことなどのエピソードが描かれます。
この小説において注目すべきは、ある意味での極限状況における、これでもかといわんばかりの諧謔・ユーモアです。作中では身の危険を自分で茶化すかのようなツボを突く笑いが、むしろ深刻な状況にじんわりと馴染んでしまって、その違和感のなさが逆に悲劇を雄弁に物語っているようです。
木山捷平は戦前の若き日に早稲田大学を志しましたが叶わず、東洋大学に進学して結局中退、その後は太宰治、中原中也、山岸外史、檀一雄らと同人雑誌を発行するなどして詩作から小説へと移行して、三十歳を過ぎてから「抑制の日」「河骨」が芥川賞候補になるなど、かなりユニークな経歴の持ち主というか苦労人です。そのことが彼の「耳学問」を含めた戦後の多くの作品の強烈なユーモアや飄逸さにつながっているとしたら、人生を戯画化してしまうような大胆さと、むしろそれを深遠なものとして感じさせる秀逸な運筆があったということでしょう。
「耳学問」の作中では捕虜召集の試問をした女性士官に魅惑されたり、捕虜徴発から逃げてから出くわしたソ連兵士を以前会話をして握手をしたソバカスの兵士ではないかと思い、「ソバーカス」などと勝手に呼んだりするなど、主人公の「私」の挙動において随所に場違いなような諧謔が散見されます。「耳学問」という題が象徴するように、「私」がいつ身が危うくなるか分からない状況下において、以前耳学問で覚えたロシア語を執拗に使いたがったりするのも、ある種「逼迫」と「笑い」が表裏一体のものというか、不可分のものであるということを示唆しているようです。
太宰治も「お伽草紙」などの戦時下の作品において諧謔・ユーモアを散りばめて書いていましたし、坂口安吾の戦時中の諸作にも、愚直なまでの思いが逆に滑稽味を生むという手法が使われています。意図しているとかしていないとかの問題ではなく、文学の方法論としても一般論としても、とことん追い詰められてしまってそれが常態化してくると、人間は飄然として笑うしかない、という感覚的な摂理があるのだと思うのです。寺山修司の天井桟敷にしてもつかこうへいの演劇にしても、豊かな時代のものではあってもぎりぎりの瀬戸際のところでやっていたからこそ、逆説的な諧謔を生み出したのではないでしょうか。
社会的な面や世相といった面でも、そういったことは往々にしてあると思います。特に二十一世紀に入ってからの現代においては、その色合いは濃密になっているといえます。「耳学問」の主人公が鼻唄まじりに戦場を闊歩するようなスタンスを何の無理もなくとっているように、現代の日本の社会においても、政治・経済・精神の面で緊迫したシビアな状況が慢性化する中で、それらが「実体のない書き割り」であるとでもいわんばかりに、テレビやエンタメなどのメディアは刹那的なものを次から次へと享楽的に濫費しています。木山捷平が自身の文学において貫徹した風に揺れる柳のような精神は、社会的なものにフォーカスしてみると、皮肉をいうわけではないのですが、世の中において「豊かさ」の形骸化とともに実に純然たるものに変わってしまったのかも知れません。
木山捷平の文学は諧謔・ユーモアを旨としながら、やがて長編小説「大陸の細道」「長春五馬路」へと結実します。人間や社会の感覚的な摂理がどうであれ、意図とは無関係に志向というものは可変性を孕んでいます。そのことを加味した上での社会の成熟とは、刹那の中に真実を穿つ眼を持って、気安めではない「粋」で「深甚」な諧謔を大事にすることなのではないでしょうか。
木山捷平「耳学問」は、現在では講談社文芸文庫の「氏神さま・春雨・耳学問」で読むことができます。