庄野潤三「プールサイド小景」ー「存在不安」の思想史ー
こんにちは。
海藤です。
今回は昭和二十九年に「群像」に発表され昭和三十年に芥川賞を受賞した、庄野潤三「プールサイド小景」という小説について書かせていただきたいと思います。
内容はというと、何の変哲もない卑近な家族の日常がルーティンの綻びを機に内的に侵蝕されていく、というものです。作中の青木氏は平凡なサラリーマンで妻と二人の息子がいますが、夕方になると家族で近くの学校のプールに来るのです。そして、息子たちを泳がせたり女子選手たちにチョコレートをあげたりして帰っていきます。しかし、実は青木氏は少額ですが会社の金を使い込んでクビになり、無職なのです。この小説は、当然と思っていた日常のリズムや生活観念が破綻したことで妻が感じる「生きる」ことの違和感と茫漠とした不安、青木氏のバーの女性との関係とそこから生じる猜疑といったものを軸に描かれています。
太平楽に甘んじていた若者時代が終わり、社会に出てある程度過ごした人なら感得する不安が描かれている作品だといえるでしょう。それは社会性に鍛え上げられた時の摩耗という意味合いで、中年期の精神の底流にあるものです。実際に作中の青木夫妻は中年期であり、人生観の材料の分母はそれなりに大きくなっています。しかし、分母が肥大することは様々なことがパターン化する危険を孕んでいて、慣習の中に浸かりすぎた時に精神のアンバランスが生じるのです。青木氏が妻に語る、会社における何気ないルーティンの光景や同僚のいつも座っている椅子に対する神経症的な違和感が、それを物語っているといえるでしょう。また、夫が無職になった後の妻が感じる、料理をするという普段の行為へのプリミティブな疑問など、いうなれば「人生に対するゲシュタルト崩壊」のようなものが随所に描かれています。
そのような根源的な崩壊感は、当意即妙に言語化できない歯痒さがあるほど、近現代の人間に生理的に根差したものなのです。ここで近現代といったのは、瑣末な綻びや慣習の瓦解によって生じる根源的な猜疑が、日本においては明治維新を契機とした欧米の近代思想の流入が端緒となったものと考えられるからです。明治時代に「神経」という言葉が流行したり、大正時代の学生たちが神経衰弱自慢をしたりといったように、欧米思想は日本的な精神風土に潤色されて、非常にナイーブかつナーバスな様相を呈しました。「プールサイド小景」には庶民の卑近な生活上の問題だけではなく、こうした日本の近現代の社会的精神史が横たわっているといえるでしょう。
ドストエフスキー「罪と罰」にはラスコーリニコフが思念の彷徨の果てに啓示を受けるような場面が出てきますが、そうした外国の啓蒙的なロジックと日本の近世の雑駁さが混交して、ナイーブな神経の土壌ができたとも考えられます。
古くは坪内逍遙や北村透谷や高山樗牛らに遡る日本思想史を考えた時に、それはヨーロッパ的な事実の整合性による論理とは趣を異にして、日本の「曖昧」の文化ゆえにプリミティブな「不条理」の観念に深く潜っていく道を辿ってきたように思われます。ジョイスにしてもバタイユにしてもカフカの「城」「審判」にしても、筋が通らないようでいても表象として均整がとれていて、あまり理不尽なものは感じられません。それに比して日本的思想による神経は、破綻や齟齬と隣り合わせのようなものを孕んでいるのです。庄野潤三「プールサイド小景」に描かれているような芥川の「ぼんやりとした不安」的なものは、日本経済の発展により国民の知的水準が上がっていくにつれて、急速に社会を覆っていきました。新しい令和の時代において、庄野潤三が描いたような人生や生活そのものへの疑懼というものはどのような形態をとっていくのでしょうか。
平成において、人間の足場の不安定さ、先の成算のできない社会不安、若年層の抱える自己同一性の問題などによって、人々の中の存在不安が拡大したことは確かです。若年層にしても定年退職者にしても、うつ病・不安障害などナイーブな「神経症時代」のような状態にあるのが現代日本なのでしょう。そういう時代にメンタル面や社会面の専門家が重用されるのも時宜にかなっています。しかし実際のところ、近代以降に増幅していった日本人の不明瞭な不安は、「プールサイド小景」が発表された昭和の時代にしてもそうなのですが、対症療法的なものはあっても、近現代人として内在化されたものである限り根治はできません。また、少なくとも文化的価値観からすると、そうした煩悶が人間を人間たらしめているともいえるのです。そうした現実を吟味した上で、存在不安の渦中に佇立するのではなく、思考と行動と来し方行く末の整合性を探求しながら、「生きる」ことの不条理を反芻することが大事なのでしょう。こうしたことは二律背反のようでありながら、「条理と不条理の混合酒」の妙味を思索とともに堪能し、観念も生活も包含した結晶を見つけるという目的において、「現代人」の仕事なのではないでしょうか。
庄野潤三「プールサイド小景」は、新潮文庫の「プールサイド小景・静物」などで読むことができます。