尾崎一雄「暢気眼鏡」における「聖性」の論理とプラグマティズム
こんにちは。
海藤です。
今回は、昭和の時代に私小説・心境小説の分野で活躍した尾崎一雄の「暢気眼鏡」という短編小説について書かせていただきたいと思います。昭和八年に「人物評論」に発表され、尾崎一雄はこの作品を収録した小説集「暢気眼鏡」で昭和十二年に第五回芥川賞を受賞しました。この小説は、小説家の夫と今でいうところの「天然系」の若い妻との貧しい生活を、若干の悲壮感とユーモアでもって活写した佳品です。
主人公の「私」は金の問題で郷里の母と弟妹を捨て、更にその当時の妻とも不和になって暴力を振るうようになり離婚しました。一人になって一年後に、田舎から出てきた芳枝という若い娘と再婚し、この少女は暢気眼鏡をかけているような悠揚とした性格でした。その後、夫婦は宿料が払えずに宿屋から逃げ出し、友人の清水の住む下宿屋に転居します。その間に芳枝は妊娠しますが、うっかりグローブをはめて野球をしてしまったり、「私」に請われて盛装をしてマネキンの仕事をしたりするのです。その期間の夫婦間の漫才めいた滑稽な会話と、「天然系」の妻との生活と人生に対する夫の達観には、言い得て妙といった趣があります。ラストの、暢気眼鏡をかけていたのは自分の方かも知れないという思いの安逸には、作品全体のペーソスが集約されているといえるでしょう。
この短編小説が内包しているものに、人間の心理的な「慰撫」の問題と経験論の問題があります。この作品は芳枝の剽軽な言動を除いて多分に自然主義的であり、ユーモアの背景にある殺伐とした現実と主人公の憂悶は、経験則に基づいた実証主義を感じさせるのです。つまり、作中のうらぶれた精神と悔悟も期待もない即時性が、冷厳な実体験あってこその「観念」だというプラグマティズムを感じさせるということです。その手の哲学はパースについての専門書などに書いてありますが、「暢気眼鏡」に描かれる生活観念は総じて彷徨の果ての経験則であり、その点でオーソドックスな観念論とは対極にあるものです。
プラグマティズムはアメリカ的功利主義に拠っていますが、「暢気眼鏡」のそれは経験の負荷のために現象形態の解析が朧化され、現象に対して平明な感覚しか持ち得ないという点で、「実証主義的ニヒリズム」とでもいうべきものでしょう。また、主体・客体の存在論の視点でこの夫婦関係の倫理面を見た時に、夫婦間の情緒的に煩瑣なものを捨象した他愛もないやり取りが、心理的「慰撫」という形での投企になっていることが分かります。そして主客の関係論において芳枝というキャラクターの個性を考えると、現代社会の表象文化につながるものが見えてくるのです。
この寂寞の中のユーモアを描いた小説において、実証主義的な観念に摩耗した夫のニヒリズムに対して敷衍する存在が、芳枝の毒気を抜くようなイノセンスなのです。ラストで夫は諦観から一歩踏み出す調和的精神と、「暢気眼鏡」という概念を通した芳枝との同一化を体験しています。そのことによって安逸への溶融感覚を味わい、形而上学的な前進をしているといえるでしょう。このことを現代日本社会の疲弊に引き寄せて考えると、そこには若年層から中年までを席巻したサブカルチャーとオタク文化の定着があり、作中の芳枝のような「聖性」という媒体のことが思われるのです。
「暢気眼鏡」の世界観は、夫の主観をも含めてどこか多元的に見えますが、生活の営為や要素が芳枝のイノセンスに輻輳していくようにも考えられるのです。換言すれば、一元論・多元論の両義性を孕んだ「聖性」の包括的な論理であり、現代ではアキバブームを機に社会に血肉化した「萌え」の論理ということでもあります。不況が進行し慢性化していく中で、経験則に基づいた功利主義・実証主義が拡張し、膨大なマニュアル本や法則本が出回り、日本におけるプラグマティズムは定式化されていきました。日本人が客観的にも主観的にも「実証主義的ニヒリズム」に疲弊していくのと時を同じくして、それまで一部のマニアだけのコアなコンテンツだった、美少女アニメ・ゲームなどの「萌え」という慰撫としての聖性が大衆化していきました。それは、プラグマティズムと生産性の偏重という現代的な価値基準の反動のように考えられます。好悪の問題や退嬰的ということは度外視しても、「暢気眼鏡」の芳枝のような、内的な感覚に訴える慰撫としての表象は日本人の「集合的無意識」であったようにも考えられ、そうしたものと時代性との合致が、美少女キャラクターを媒体にした「萌え」であったということでしょう。
ただ疑義を呈するとすれば、その概念の作用が尾崎一雄の描いたような形而上学的前進ではなく、慰撫として、共時性への感応の域をなかなか出られずにいるのではないかということです。これだけ美少女アニメなどのオタク文化が定式化した以上、現代の「萌え」を中枢に据えた「量産可能な様式美」という自己矛盾は段階的に軌道修正するべきでしょう。国や権威の人々がサブカルチャー・アニメ文化を世界に誇る「芸術」と位置づけるのであれば、「萌え」概念に関して、利潤の追求と「循環可能な美意識としての確立」の両方が大事だといえます。そのことによってプラグマティズムの世相に表象文化としての形而上学を投げかけるのであり、俗化された聖性であってもそれはより深化されていくべきでしょう。
尾崎一雄「暢気眼鏡」は、岩波文庫の「暢気眼鏡・虫のいろいろ他十三篇」で読むことができます。