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フランス文学つれづれ

こんにちは。
海藤です。


考えてみると、フランス文学というものは独特な味わいがあるものです。歴史も長く非常に広範なものでありながら、これといった核のようなものを捉えきれないような不思議さがあるのです。ロシア文学ほど重厚長大ではなく、かといってアメリカ文学のようにふわっとしているわけでもなく、イギリス文学のようにやたらと均整が取れているわけでもありません。フランス文学は一応学問の一つのジャンルとして確立していながらも、ロシアのゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキーといった作家が描いた広大な風土の中における人間の精神的・宗教的なせめぎ合いというほどの硬質さは見受けられないのです。フランス文学は恋愛小説、風俗小説、歴史小説、心理小説といったように多岐にわたっていますが、神秘不可思議な形而上学に向かっていくのではなく、ヒューマンドラマを個々の作家が自由闊達な筆で描き出している感触があるのです。


大正や昭和初期に日本人に圧倒的に支持されたモーパッサンなどは、日常に潜む狂気を描き出すというスタイルの先駆けかも知れません。もっともモーパッサン自身が最後は精神病院で生涯を終えたというのは皮肉な限りなのですが。そして、彼の師匠であるフローベールについて考えてみると、「感情教育」や「ボヴァリー夫人」など人生の生々流転の悲喜劇を見事に描き出す作家であったと思います。こうしたモーパッサンやフローベールのような人生のざわめきを描く作家がいた一方で、バルザックのような豪胆で雑駁な感じのする作家が大活躍したのも事実です。日本では早い頃から森鴎外がバルザックの「ゴリオ爺さん」を読んだという事実があるようですが、現代の日本ではバルザックの専門家というのは一定数いるのでしょうが、一般の愛読者と言うと少数派なのではないかと思われます。彼のくどいぐらいの説明的な文体と社会風俗の描写の濃密さが、日本人の肌合いに馴染まないのではないでしょうか。


そのバルザック的な感性と対極にあるのがスタンダールです。「赤と黒」「パルムの僧院」「カストロの尼」の洗練された心理世界のドラマは人口に膾炙するものであり、大岡昇平や織田作之助のように日本においてはスタンダール受容史の方が分かりやすいような思いがします。ゾラの遺伝や環境による抗いがたい運命という考え方も日本の知識人の間に浸透しましたし、心理面や意識を揺さぶったり何か教条的なものがあった方が日本人受けするということなのかもしれません。


しかしクラシックにおいてはあれほど人間の肉の面を鮮烈に描いていたフランス文学だったのですが、第一次対戦のあたりからサルトルなどに代表されるように思想的・哲学的な傾向が強くなっていきました。スタンダールなどの作品にもそうした素養はあったのかもしれませんが、実存を旨とした近代哲学の勃興によって、そうした傾向はフランス文壇に根付いていったと思われます。代表的なのはサルトル、カミュ、バタイユなどでしょうが、マルローや現代的なところではサガンなどもそうした思想的な系譜に入ると言えるでしょう。こうした流れがフランス現代思想につながっていくのですが、むしろこのようなことは戦後の日本の知識人好みだったように思われます。大江健三郎、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三といった戦後の思弁的な作家たちにそうした実存的なものが咀嚼されていきました。日本では文壇という段階では存在論にとどまっていたようですが、現代に入ってからのアカデミズムや論壇では晦渋な現代思想が論議されることが定着していった感があります。そしてそれについてはモーパッサンやスタンダールからの影響図というものも無視できない問題であり、ジャック・デリダとゾラのかみ合わせを考えるのも楽しいものです。


日本がそうであったように思想や哲学といったものは移ろいゆくものですが、その時代特有のものに思いを馳せ、今日的な問題との関係性を考えることは、それなりに意味のあることです。先に書いたフランス文学の多様性と一筋縄ではいかない感じは、フランス文化の日本に対する懐の深さや、繊細な日本文化とフランス的思索との親和性を物語っているのかも知れません。バルザックのあけすけな文学表現が日本の国民感情にしっくり来る日も、いつか来るのではないでしょうか。

2019年7月4日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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