0120-871-355
★電話受付:平日 9時~18時

お電話

現在位置:

サリンジャーとカポーティ

こんにちは。
海藤です。


アメリカ文学というものは、世界文学の中でも特色的な位置づけが難しいものだと思います。確かにアメリカ的なダイナミズムという見方で言うと、ノーベル文学賞を受賞したフォークナーやヘミングウェイやスタインベックを引き合いに出すと一番分かりやすいのかもしれませんが、特色がダイナミズムという漠然としたものであるだけに、やはり定義と言うか、位置づけが難しいものがあります。アメリカ文学がふわっとしすぎているというような意味合いのことは福田恒存さんも言っていたと思いますが、キャザーにしてもトニ・モリスンにしても、その向かっているべきところが分かりづらいというところがあります。国の文学としての特色と言うか共通の大義と言うか、ダイナミックな多人種国家であるだけに良い意味にとれば多様な価値観が混在しているということなのでしょう。


しかしその漠然としたダイナミズムに背を向けるように、日本文学的な価値観に近いような皮膚感覚で作品を発表した作家も、アメリカには確かにいました。それはやはりサリンジャーとカポーティでしょう。どちらも日本の私小説的な、何か個人の価値観や世界観にとどまって大きな原理を手探りしているような作風なのです。しかしながら、この二人の作った文学世界や歩んだ人生は非常に対照的です。サリンジャーはグラース家を描いた一連の作品や「ライ麦畑でつかまえて」において非常に繊細な筆致でアメリカ的ダイナミズムの中における閉塞感を描き出しました。その風変わりな作風や内面描写のナイーブさが日本的な「曖昧」の感性にフィットしたのか、日本の読者には広く受け入れられ、村上春樹にも影響を与えたことは周知の事実です。かたやカポーティはと言うと、早熟の天才や神童として「ミリアム」がO・ヘンリ賞を受賞したり、「遠い声遠い部屋」が爆発的な人気を得たりと、サリンジャーとは対照的に華やかな印象があります。サリンジャーはその作風のナイーブさゆえなのか、まだ若いうちに隠遁生活に入りましたが、カポーティはその生活の派手さゆえに破滅の道を辿った感があります。


サリンジャーはその作家性を確固たるものにしました。しかしカポーティに関しては、村上春樹さんもどこかこの人には胡散臭さがつきまとったという風に言及しています。「ライ麦畑」に象徴されるように、サリンジャーの作品は都会的な感性の中で繊細な世界が描出されるものでしたが、カポーティの作品は田舎の土臭さの中からどこか都会的な虚勢をはっているような脆さがあったように思います。どちらも村上春樹に代表されるように日本文学の感性に大きな影響を与えたことは間違いないのですが、人口に膾炙したサリンジャーに比べて、カポーティの方は「冷血」が話題になったぐらいでどこかマイナーな印象のままです。カポーティの初期作品は「無頭の鷹」などのように、繊弱さと心の深い部分に入ってくるような感じがありますが、そのあたりは同じように「花ざかりの森」などで早熟と呼ばれた三島由紀夫の初期作品と共通するものがあります。


心理の深い部分に分け入るという点ではサリンジャーもカポーティも同じなのでしょうが、やはり若いうちに全てを出し尽くしたり、ひたすら個人と個人の間の折衝を描いたという点では、サリンジャーの方が日本的であったようです。カポーティは初期のゴシック・ロマンから変節して、「ティファニーで朝食を」などのロマンスを描いた後、先に書いた「冷血」などの話題性によって社交界に身を置き続け、晩年の作品「叶えられた祈り」では社交界から顰蹙を買い、アルコールと薬物がたたって最後は友人宅で息を引き取るという壮絶な人生でした。


サリンジャーもカポーティも、アメリカ的なダイナミックな感性に反するかのように、傷つきやすい個人の内面を描き続けたのでしょうが、結果的にそれがサリンジャーにとっては隠遁という形になり、カポーティにとってはアルコールや薬物という形になったのでしょう。二人ともタイプとしては違いますが、極めて日本の私小説作家に近いようなものが感じられるのです。


日本文学への影響ということを考えると、外面的なものをフォークナーやヘミングウェイが、そして内面的なものをサリンジャーやカポーティが担っていたように思います。アメリカ的ダイナミズムも文化の面では日本に表層的な影響を与えたのでしょうが、サリンジャーやカポーティの受容の方が日本人の感性にしっくりとくるのは、やはり日本の古くからの内面的な「曖昧」の感性ゆえだと思われます。日本人はサリンジャーの描く個人の内面や、カポーティの描くアメリカの田舎などに、日本的な原風景を重ね合わせるのでしょう。

2019年7月17日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


本買取ブログTOP