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ノーベル文学賞の話

こんにちは。
海藤です。


村上春樹の話題になると、ハルキストと呼ばれる人々にとっては特にですが、何かとノーベル文学賞のことが取り沙汰されます。何となく日本文学の世界においては、世界的な知名度があると安直にノーベル文学賞につながるかのような神話が存在するようです。村上春樹の数々の作品が世界的に見ても高水準であることは間違いないのですが、世界的な認知度や作品の水準がノーベル文学賞というものに直結するわけではないということは歴史が証明しているようです。


ノーベル文学賞は以前から欧米偏重の性質があり、アジアを軽視していると言う指摘がありましたが、そのこと以上に何を基準にして選考しているのかが分かりにくいという現状があります。芹沢光治良が日本人で最初のノーベル文学賞候補であったという説がありますが、このことが本当であったとしても、彼の作品は仏訳が出たに過ぎず、作家としてはあくまでマイノリティであったという事実が引っかかるのです。そうかと思うと日本で十二分なぐらいの認知度がある谷崎潤一郎が選考の過程において恐ろしく低評価であったり、西脇順三郎についての評価も非常に曖昧なものであったということについての疑問が出てくるのです。


日本人のノーベル文学賞候補者で一番高く評価されたのは、三島由紀夫というのが定説なようです。しかしそれにしても受賞には至らなかったわけですし、実際に受賞した川端康成にしても、グローバルスタンダードを評価されたというよりはエキゾチズムを評価されたという点で、何か日本人としては消化不良なものが残ります。そう考えた時に欧米偏重であるという説も当たらずといえど遠からずで、文学を世界的な視野で捉えた時に、欧米の習慣や文化がマジョリティであるという観念が根強いということなのでしょう。


そうしたノーベル文学賞のことについて、大学院に在籍していた時のパーティーで指導教授の先生に聞いたことがあります。「大江健三郎はロビー活動と言うか裏で色々根回しをしていた。そうでなければ受賞できないよ」と先生は言っていました。それじゃあ川端康成はどうなんですかと聞いてみると、「いや、あれはそろそろジャパンにあげてもいいんじゃないのという感じだったんじゃないの」という返事が返ってきました。そんなものかと思って肯いたものの、何か消化不良なものが残り、日本の多くの文学愛好者がそうであるように、ノーベル文学賞のアジアに対する非常に曖昧な扱い方に承服しかねるものがありました。


中村文則がいくら欧米で評価されていると言っても向こうの文学シーンを席巻しているとまでは言えず、外国で評価されている日本人の現代作家といっても東アジアの内部でちまちまと読まれているに過ぎないというのが現状です。ありていに言ってしまえば、こうした日本文学の欧米の基準に満たないという未熟さが、政治家の方々が人文科学を軽視すると言う有様につながっているのであって、世界から称賛されないようなものは政治的協力に値しないということなのでしょう。そのことがまた変に理にかなっているところが非常に歯がゆいところではあります。


考えてみれば、グローバルスタンダードという意味で受賞に至った大江健三郎の作品群も、当初はミーハーな人々が飛びつきましたが、その高尚な内容にすぐにそれらの人々は離れて行き、日本人の文化度の向上に繋がらなかったような感じがします。日本人は刹那的で分かりやすいものを好む国民性ですから、深遠な文化も一時期のブームで終わってしまうという傾向があるようです。そもそもサブカルチャーがハイカルチャーという扱いを受けているような国ですから、じりじりとしていて成熟という聖域になかなか踏み込めないでいるということなのでしょう。


川端康成のノーベル文学賞受賞をハイカルチャーの国が与えてくれた一時の夢というふうに考えて、日本文化は我が道を行くという方向性でも間違ってはいないような思いがします。となると村上春樹についての問題が残りますが、ノーベル文学賞というものは世界の国々のまだよく知られていない優れた作家を発掘するという理念で運営しているものなので、村上春樹は知名度が高すぎて若干難しいかなという感じがします。あの大作家のフォークナーでさえ、マイナー作家であったのが受賞に至ったのであり、そう考えるとやはり悩ましいところです。夢は持った方が楽しい、しかしノーベル文学賞の現実と日本文学の現実がなあ、と呻吟するという話でした。

2019年7月30日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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