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ハーマン・メルヴィル「バートルビー(圭書房)」を読んでみました。


melville190810


こんにちは。
店長新井です。


例のごとく出張買取の合間に某大手チェーン店であるブック〇フさんで涼んでいると、海外文学コーナーで画像の本を見つけました。


ブック〇フとは魔境です。一体こんな裸本を棚に刺すとはどういう腹積もりなんだと思って棚から出すと、こういうデザインらしい、もともと裸本らしいということがわかりました。


おどろおどろしい装丁に目を引かれ、著者名の「ハーマン」の部分で何やら得体の知れない海外文学かもしれないと好奇心に駆られてページをめくります。


後からよく見直すと著者は「ハーマン・メルヴィル」。「白鯨」のあのメルヴィルです。


得体のしれない海外文学とは縁遠いアメリカを代表する文豪。自分がメルヴィルのファーストネームを知らなかったことには驚きましたが(^_^;)、よく考えてみると外人作家のフルネームは意外と知らないことに気付きました。


トルストイは「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ」、バルザックは「オノレ・ド・バルザック」、ダレノガレ明美は「福住・ダイアナ・明美・ダレノガレ」。


とにかくペラペラと読み始めてみます。



内容は不思議なシチュエーションコント



読み始めると、いきなりの旧仮名遣いで面食らうも、次第に内容に引き込まれていきました。


話は、ある日バートルビーという書記の男が主人公の法律事務所(のようなもの?)にやってきます。


そして主人公(所長。以下所長)はすぐに彼を採用し、事務所に勤め始め、そこから異様な物語が始まります。


初めはむさぼるように仕事をしていた彼でしたが、所長がある仕事を頼んだところ「その気になれません」といって断ってしまいます。


もちろん所長は激怒。バートルビーに詰め寄りますが、バートルビーはするりと逃げてしまいます。


こんなことが何度もあり、それでもバートルビーは事務所に居続け、しまいには全ての仕事を放棄してしまいます。


その頃には所長はバートルビーのことで頭がいっぱいで、彼への怒りと、一体どうしたら彼とうまくやっていけるのかの板挟みにある不安定な精神状態になっていきます。


そんな感じで主に所長とバートルビーのやりとりで話は進みます。


そのシチュエーションコントは不思議な可笑しさに溢れていて一気に最後まで読んでしまいました。



作風はアメリカ的というよりも、むしろカフカ



「バートルビー」を読んでメルヴィルが好きになりました。


ブック〇フ内で急いで集英社ギャラリー「世界の文学」の16巻をAmazonでオーダーし(お店にはなかったので(^_^;))、「白鯨」を読むことになりました。


「白鯨」はやはり想像していた通り19世紀の力強いアメリカという印象なのですが、ところどころにメルヴィルらしい神経質な面が出ていて(例えば序盤で主人公の男性がホテル側のダブルブッキングが理由で、見ず知らずの男性と一つのベットで一緒に寝ることになってしまう場面とか)、私としてはこちらのほうがメルヴィルの面白いところだなと思ってしまいます。


ところが当時のアメリカではメルヴィルのこの神経質な面は好かれてはいなかったようで、船乗りであった経験から書かれた海洋冒険記こそが評価されており、ホーソーンへの手紙には「自分がもっとも書きたいと思っていることは、書くことを禁じられています」と不平を述べていたようです(光文社古典新訳文庫「ビリー・バッド」解説より)。


そして「バートルビー」のシュールな展開は、アメリカ的というよりはカフカ的という感じがして、この作品が書かれたのは1853年であり、カフカが生まれたのは1883年ですから、カフカを先んじてメルヴィルこそがこのシュールな系譜の先駆けとなったのではないか、とぼんやりと思ったりもします。



やはり言われている「ポストモダン的」



そんなふうに思っていたら、やはり同じようなことを言われていました。


それは光文社古典新訳文庫の「ビリー・バッド」の解説を読んだ時です。


「ビリー・バッドを読んで、ポストモダン的だな、という印象をあらためて持った」と書かれていました。


これはメルヴィル批評では長いことキーワードとされてきたようで、ここを読んだときに「やっぱり」と思いました。


ポストモダン的というとデリダとかドゥルーズとかそういう話になってしまいそうですが、私の印象で言うとポストモダン的状態とは「確かなことがない状態で、不確かなことのみが確かな状態」のことです。


こんなことを書くと自分でも何を書いているかわかりませんが(^_^;)、とにかく「曖昧さ」「不安さ」みたいなものと言い換えることができそうです。


なので素人の私なりに言ってしまいたい結論とは何か。それはメルヴィル作品にはすべからくポストモダン的不安という柱が確固として立っているということです。


繰り返しますがメルヴィルが「白鯨」を書いた1851年にはデリダもドゥルーズも生まれていませんでした。


かろうじてニーチェは生まれていましたが、「白鯨」を書いた時点でのニーチェは7歳か8歳。つまり近代哲学をポストモダンに前進させるエンジンすら作られていない時代。


そんな中で一人メルヴィルだけが近未来を予見したかのように不気味な作品をいくつも残していることに驚かされたのでした。

2019年8月10日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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