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時代の共通認識などについて 1

こんにちは。
海藤です。


年を追うごとに世代間の認識の相違というものが顕著になってきたように感じられます。これは人間の摂理のようなものである程度やむを得ないことなのかも知れませんが、ネット社会の拡充によって生じた異常なまでの価値観の多様さが、その世代による、あるいは個々人の価値基準の狭量さを逆に生み出してしまっているように思えます。インターネットやSNSの空気化によって玉石混交の情報が氾濫したことで、個人個人の情報の処理方法も多様化して、世代間や人間関係の分裂を引き起こしたように感じられるのは何とも皮肉なことです。私はネット社会には肯定的な方ですし、それらのことはあくまで私個人の考えなのですが、情報の極端な細分化によって、各々の個人の観念や思想がある種の嗜好性に傾斜していくように感じているのは私に限ったことではないでしょう。元々思想というものは何らかの基準があるものではなく、個人の裁量によるアディクションだと言ってしまえばそれまでですが、本多秋五も短い批評の中で書いていたように、私個人としても社会におけるヒューマンな同一性の手綱を握ってくれるような一定の基準が存在した方が、社会規範という意味で世の中が節度を保てるのではないかと思います。


社会科学はある種の解釈を提示するものですし、法学は現実形態としての手綱ですが、それらは原初的な意味での人間存在を包括してくれるものとは違うように感じます。そう考えた時に、共同幻想という現代の情報化社会とは少し逆のようなことが想起されるのは皮肉なような気がします。明治の文明開化の時も、太平洋戦争の真っ只中の時も、昭和の高度経済成長期の時も、あるいはかつての政治の季節と呼ばれた時期においても、時代が生み出したパブリック・イメージは確かにあったに違いありません。それらが情報が錯綜する現代において共同幻想であったと言われたとしても、その時代の啓示のような価値観の共有は確かに爪痕を残しているのであり、現代の土台となる共通分母を形成しているはずです。そういう意味でかつて人間の血肉となっていったような時代の共同幻想とは趣を異にして、現代の情報化社会での共同幻想は、芸能人や政治家のスキャンダル、あるいは巷での一過性のブームといったものが辛うじて残滓としてあるだけのような気もします。


アイデンティティや属性、若いか年を取っているかなどということで簡単に人間存在が分裂してしまう、あまりにも存在論的なものとかけ離れた希薄さがそこにあるように思えます。現代では若年層が社会に対して離反したいのか甘えたいのか判然としないような事件がよく報道されますし、一方で高齢になればなるほど第一線から排除されていく現状があるなど、確かに人間疎外や退行的な意味でのカオスがあるように感じられます。やはり情報や価値観の多様化と人間疎外とは表裏一体なのでしょうか。



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2019年11月27日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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