芸術活動と生活
こんにちは。
海藤です。
芸術家の創作態度や仕事に対するスタンスとはどういうものなのでしょうか。このことは今や誰もが自由闊達に自己実現的な仕事ができるようになったことによって、個人のレベルや社会のレベルでも問われることが重要になってきた問題でもあるように思えます。こうしたことは現代になってから輪郭が濃くなってきた自己実現という価値基準に起因することであり、歴史の中で脈々と受け継がれてきた仕事に対する観念の本質的な見直しが迫られているということなのかも知れません。思想と社会、ひいては自己と現実という問題にこのことを引き寄せて考えてみると、現代に蔓延するアーティスティックな価値観への依存が孕んでいる問題が浮き彫りになってきます。考えてみれば、芸術家が社会通念や常識といったものと袂を分かって、どこか超然とした安全圏の中に囲い込まれていた時代とは違い、社会の諸相が混沌としていて経済が疲弊している現代においては、ある種の同調圧力と言うか、人間の個性を認めながらも、社会性の欠如に対する迂遠な批判というものが多くなっているように思います。大まかな見方をすると、自己実現のツールが充実しているのに反比例して、社会の余裕のなさゆえに、アーティスティックな感性に対しても主観と客観の完璧な両立が求められているようなのです。つまり、本質的な矛盾を抱えている人間存在に対して社会がどこか不寛容になり、公私ともに納得のいくような着地点を求めすぎているような感じがするのです。そう考えると自己実現的な世界に限ったことではないのかも知れませんが、ここでは現代社会特有の、仕事に関する二律背反の問題について考えていこうと思います。
ドイツ抒情詩を代表する作家であり、実存主義と結びつけて語られることの多い、リルケを引き合いに出すと何かが浮き彫りになるような感じがします。リルケは詩作にしても散文にしても、常に内面と外界、主体と客体の関係性について煩悶したり微調整したりしながら創作活動を行った作家でした。初期の頃は主観や情動に偏り過ぎたり、神と人間の関係性について模索したり、啓示を受けたような人間肯定に傾斜したりと、その時々によって自分の精神面の逆説と向き合っていったことで、芸術に対するスタンスは融通無碍に変幻していきました。「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスに寄せるソネット」など彼の作品に対するスタンスは多種多様ですが、重要なのは彫刻家のロダンによって感化された、仕事に対する向き合い方です。言語芸術と造型芸術という違いはあるのでしょうが、生活の幸福を意に介さず、とことん芸術に邁進して、仕事という感覚でそれと向き合うというロダンの理念は、心構えの面だけではなく方法論の面でもリルケに影響を与えました。リルケの事物詩と呼ばれる、即物的な対象を自己の内面で拡大させていくという方法論などにそのことが反映されています。つまりぎりぎりに抽象的な意味において、芸術を仕事という枠組みの中で一つの即物的な造型として捉えたのであり、そのことは当意即妙でもあり非常に観念的でもあります。
このことは意匠こそ違うかも知れませんが、日本の庄野潤三の作風やスタンスを想起させるものがあります。庄野潤三の小説「静物」「絵合せ」などには、芸術という枠組みの中であっても、描写する対象を生活に結びつけられたある種の事物・造形として率直に捉えていることが感じられ、このことはそのままアーティスティックな仕事という観念に連関があるように思います。
ここでリルケの話に戻ると、彼が散文「マルテの手記」を完成させた後に何も書けなくなってしまって、迷路の中に入り込んでしまったことでもわかるように、リルケの方法論はその時々の対症療法的なものの域を出なかったようです。しかし、ロダンから薫陶を受けた仕事に対する真率な観念は非常に意義のあるものだったと思います。庄野潤三がロダンのような率直な姿勢でも安定的に仕事をしていけたのは、愚直さとは違った、生活も芸術もありのままに捉える観照的態度を常に持っていたからでしょう。つまりロダンや一時期のリルケのようなストレートで即物的な態度も仕事には重要ですし、生活の諸相を総体的に捉える庄野潤三のような姿勢もまた大事であるということなのでしょう。
現代においては出版不況や世知辛い世相などもあり、一時期と比べると芸術家の仕事を取り巻く環境は逆に鷹揚になっている感じもします。コンプライアンスやモラルが直接的にも間接的にも求められる現代においては、愚直な芸術活動については懐疑的な考え方が一般的です。それは一見社会が懐の深さを失っているようにも感じられますが、ある意味生活と芸術についての総体的な価値観の萌芽なのかも知れません。現代社会に枚挙に暇がないぐらいに存在する自己実現的な仕事は、主観と客観、主体と客体という二項対立の図式で語られるような段階ではもはやないということなのだと考えられます。
仕事を仕事として、それにまつわる主体と客体の二極の図式も、率直に総体的に捉えるということが大事なのではないでしょうか。即物的でもあり、エモーショナルでもあるという鷹揚なスタンスが、これからの芸術家の仕事には求められていくと思います。そうしたものが定着してはじめて、リルケの生涯を通じた葛藤が報われるのでしょう。