円城塔の「道化師の蝶」を読んで
こんにちは。
海藤です。
最近になってから、第146回芥川賞を受賞した円城塔の「道化師の蝶」を読みました。ここのところ年齢のせいか価値観が旧弊になって、昔のものばかり読んでいたのですが、久しぶりに現代文学に接して非常に清新な読書体験ができました。芥川賞受賞作ということで言うと、もっと最近のものがあるのでしょうが、私の年齢的な感覚からすると、この円城塔の受賞作でさえも十分新しく、凝り固まった価値観を解きほぐしてくれるような瑞々しく新鮮なものが感じられました。
さて、この「道化師の蝶」についてですが、まず作品としての定義が難しいという感触があり、ある種の形而上学とか哲学小説とかいうカテゴライズをしてしまうと矮小化になってしまうような広汎なものを孕んでいるのです。作中で描かれる言語空間のことにしても、度々視点が移動する思考の流れにしても、そこに何かの意味を付与して完結させてはいけないというような思いを抱かせるのです。要するにこの作品に描かれているのは思想という人為的なものではなく、巧妙に張り巡らされた事象に対する探索のようなのです。円城塔が理学部出身ということも何か示唆的ではありますが、かつての実存主義文学や旧来の外国文学が脱却できなかった人為的・精神的という枠組みを、友幸友幸という人物をめぐる様々な要素を散りばめて拡張させていくことで越境しているように考えられるのです。こうした生理的な感覚を喚起しない文学は、下手をすればライトバースとか表層的であるとかいう評価をされる危険を孕んでいますが、思考の流れを連結していくことで一種のイメージを探求していく方法は、粘着質な思想が主体であった旧来の文学にはなかったものです。生々しいものを喚起しないで、思想ではなく思念を浮かび上がらせるという手法は、川上弘美が芥川賞を受賞した時ぐらいから始まっていたのかも知れません。
中上健次が死んで日本の近代文学が終焉したとよく言われますが、それはつまり人間存在に懊悩する思想の時代が終わったということなのかもしれませんし、思想から思念の時代に移行したということを示唆している可能性もあります。そう考えた時に、話題になった田中慎弥の「共喰い」のようなギラギラした粘着質の文学も依然として存在するわけですから、思想一辺倒ではなくなって、思念や感覚の文学が一つのジャンルとして確立したということなのでしょう。村田沙耶香の「コンビニ人間」のような、状況とそれにまつわる感覚を瑞々しく描写した作品が話題になったのも、そうしたことを反映しているのかも知れません。現代において、戦後の混乱期に比肩するのではないかというぐらいの根本的な猜疑が世の中には渦巻いていますが、文学の世界では昔のように思想に偏るのではなく、円城塔も含めて個々の作家がそれぞれの個性的な引き出しを開示しているのは、時代の不安に埋没しないぐらいの個性が尊重されていることの証左なのでしょう。
今回読んだ円城塔「道化師の蝶」のように多面的な解釈を要する作品を多く書いた作家には、実存主義の影響を受けた安部公房がいます。芥川賞を受賞した「壁 - S ・カルマ氏の犯罪」にしても、「他人の顔」にしても、「箱男」にしても、平明な解釈をすれば、作中には存在の探求やアイデンティフィケーションの問題が横たわっているようです。安部公房は東京大学医学部出身であり、円城塔と同じように理系的な下地が備わっている作家ですが、その作品には数式や公式のように衛星の如く存在を捕捉する様々なファクターが散りばめられています。安部公房の諸作品は質感がざらざらとしていて、存在の立脚点の不安定さという不穏なものを喚起しますが、存在自体を多面体のような思念として浮かび上がらせるという点では、円城塔の「道化師の蝶」と根本的なものは似ているような感じがします。安部公房の作品は存在を認知するアプローチが生々しくて、「道化師の蝶」は存在にまつわる着想や思念に重きを置いた平易なものであるという違いはあるのでしょうが、通底している根本原理は同じなのではないでしょうか。
「道化師の蝶」は多面体として構成されていますが、現代作家たちを俯瞰する限りにおいて、近来の文学はアイデンティフィケーションの問題を抱えた大きな多面体のような様相を呈しているようです。それは総体的に捉えると存在自体ということであり、自分は何者かと問うということです。文学のそうしたバックボーンは、安部公房に象徴されるように今に始まったことではないのでしょうが、直木賞を受賞した朝井リョウの「何者」が話題になったことが示唆しているように、現代においては大きな枠組みの中の人間存在ではなく、個人個人の中に胚胎する本質を問うということが趨勢になっているのではないでしょうか。社会が解体されて個人が自問自答することが多くなっている現代において、カテゴライズして全体像をとらえる社会学の需要が高まっているのも無理はないことなのかも知れません。円城塔の「道化師の蝶」が難解だと言われながらも話題になったのは、個人としての憂悶に埋没しやすい現代社会の中で、主観に陥りやすい平面的な思考とは違う、存在に対する立体的・多面的な思考が多くの読者に新鮮なものを与えたからなのではないかと思います。
全体のイメージとしては、現代文学は非常に十人十色で、出色のものも多くあるように感じます。アイデンティフィケーションの問題一つとっても様々なアプローチがあるわけですから、これからはそれぞれの作家たちが、個性的な表現で既成概念を良い意味で打ち破っていってくれることに期待したいと思います。凝り固まったものを解きほぐしてくれて、思考の風通しを良くしてくれるという点で、円城塔の「道化師の蝶」も良作だと思いますので、一読をお勧めします。