過激に生きるならばブコウスキーのようにしぶとく
こんにちは。
海藤です。
アメリカのカルト作家、チャールズ・ブコウスキーについてですが、彼の小説が性と暴力と絶望について書かれた作品がほとんどであり、彼自身も作家として成功したとはいえ退廃的な人生を送ったということもあり、ブコウスキーについては非常に賛否両論分かれるところがあります。とある文庫本の中で翻訳者の方も書かれていますが、アカデミックな場ではブコウスキーについて語ることは禁忌とされていたようです。私はブコウスキーの詩集を読んだことはありませんが、少なくとも小説作品を読んだ限りにおいては、人間の根本的な部分が悲痛なまでに抉られ、もはや何が間違っていて何が正しいのかさえも放棄したような精神状態が描かれているという感じを受けました。そうしたものがこれでもかと言わんばかりの性描写と暴力の描写につながっているのですが、そうした表現方法が文学研究という磁場において敬遠されるということに直結しているのかも知れません。それについてはアカデミックな場が短絡的な解釈をしているということは一概に言えず、言わんとしていることは理解するが表面的には、という程度のことなのでしょう。
ブコウスキーはカレッジで創作科の授業を受けて文学についての専門的な素養もあるのですが、その後に歩んだ人生が職を転々として性と惑溺に明け暮れるというものだったため、そうした生活が影を落として、作家として成功した彼の作品には人間の精神、あるいは世界全体の混沌が描かれることが多いです。ブコウスキーは四十代になってから芽が出た遅咲きの作家ですが、本業が詩人であることを自認していたようです。彼の代表的な詩集には様々なものがあるのでしょうが、むしろ性と暴力を描いた投げつけるような小説作品によって60年代のヒッピー文化からの支持を得てメジャーな作家になった感が強いようです。彼の多くの短編は「ありきたりの狂気の物語」「町でいちばんの美女」といった短編集にまとめられていますが、「パルプ」のような長編作品よりも、むしろそうした短編群の方が文化的な面で大きな影響を与えたようです。私は主にブコウスキーの短編を読んでいますが、そこには人間が人生に摩耗して多くのものを剥奪されていくと、価値判断の基準を喪失してしまって、ひたすら刹那的に何かを貪るしかないという現実が描かれていました。私も現代社会はそのような混迷の中にあるような気もしますが、ブコウスキー作品はそうした絶望が人間である限り遅かれ早かれ訪れる不可避な出来事であるということを示唆しているような気もして、少し恐怖を覚えたりもします。
翻訳者の方が、最初に読んだのがこの作品でなければ翻訳しようとは思わなかったと述べている、「町でいちばんの美女」という短編がそうした表現の極北でしょう。この作品に出てくる美女は人々から美しいと褒められ、様々な男と関係を持ちますが、いつも自分の肉体を物理的に痛めつけるようなことばかりします。そして主人公の男との逢瀬を最後に虚無と絶望の果てに自ら命を絶つのです。そこには世界と自己との乖離と言うか、内在的な自らの価値をどうしても感じられなくなってしまったという人間としての業の極致というものが描かれています。そのように自己と世界との関係の救われなさというものが、ブコウスキーの作品にはこれでもかといわんばかりに描かれるのですが、そこらへんがアカデミックな場では敬遠されたり、読者によって好悪がはっきり分かれるということにつながっているのでしょう。そういう意味において、ブコウスキーはかつてのアプレゲールの退廃的で刹那的な世界をさらに深化させて、もっと罪深いものにしたような現代作家だといえるでしょう。
彼はその作品の救いようのなさと商業的な成功による放埒な生活がピックアップされることの多い作家ですが、彼が過激な表現によって絶望を突き詰めたのにも関わらず、ジャック・ケルアックのように破滅することなく人生を全うした原動力は何だったのでしょうか。それは極言すると、彼の描いた絶望がケルアックのような若い衝動や蓮っ葉なものではなく、職業を転々としたり郵便局員として働きながら小説を書いてきたというリアルな現実に裏打ちされたものだったからではないでしょうか。過激で痛ましいものを描きながらも、それがそのような経験値に根差したものだったことによって、彼は老年になって白血病で亡くなるまで人生と格闘しつづけることができたのだと思います。
ブコウスキーの活躍時期は、日本文学でいうと庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」や三田誠広「僕って何」が芥川賞を受賞した時期と符合すると思いますが、そうした学生運動華やかなりし頃に活躍した日本の作家たちも、ある理想を放擲することなく格闘し続けた印象があります。ヒッピー文化や学生運動といったものでギラギラしていたあの時代は、ブコウスキーや当時の若者たちも含めて人々をとことんまで生かす力を秘めていたのではないかと思われるのです。ブコウスキーが亡くなったのは94年ですが、人々や社会の中から共通の理想といったものが色あせていき、個人個人が何らかの大義を模索し始めた時期でもありました。
ブコウスキーの退廃の裏には何かの信念が隠されていたように思われるのですが、それは決して個人的なものではなく、世界全体がぎりぎりのところで遵守していた信念のようなものだったのかもしれません。それもブコウスキーが人生と格闘しつづけることができた理由の一つでもある気がします。
そういうことを念頭に置いてブコウスキーの小説を読むと、もしかしたら現代の混迷の中での取っ掛かりが見えてくることもあるかもしれません。そういう意味では作中のこれでもかといわんばかりの過激さもご愛嬌だと思いますので、興味のある方は新潮文庫の短編集「町でいちばんの美女」あたりから読み始めてみると面白いと思います。