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古川真人「背高泡立草」 2

この「背高泡立草」に描かれる人間の生は、主人公の奈美が抱く「なぜ打ち捨てられた納屋の草刈りなどしなければいけないのか」と言う根本的な疑問に対して誰も明言せず、答えがないまま物語が終わっているということが象徴しているように、論理的な解釈を超越しているどころか、被投性の現実の中でありのままに率直に捉えるしかないものであるようです。この小説の中では吉川の家の二階で奈美が感じた一族の今後に対する索漠とした思いや、祖母の敬子が感じる自分が老いたという感覚や、哲雄や美穂が感じる現状に対する不穏な感覚なども描かれるのですが、それらが作品の一要素として後景のようになっているのは、人間の営みのあらゆるものを内包した全体小説という部分に主軸を置いているからなのではないでしょうか。現代文学の多くの作品に言えることですが、社会の連帯や家族という共同体が解体されていったことによって、個人の足場や立脚点、自分を取り巻く環境の来し方行く末などに不安を抱き、日常生活に安住できなくなりつつある現代人の生態を反映しているように、近年は文学の世界もバックボーンとしての人間の生の原理を手探りしているような感があります。


この古川真人「背高泡立草」においても、一族が草刈りという泥臭い仕事のために集まることを通して、遠景に遠のいてしまった生についての大きな何かを引き寄せようとしているように感じられます。それはかつての社会がドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」やガルシア・マルケス「百年の孤独」などに表現されていたような連綿とした系譜の中での人間の営みを持っていたことに対するオマージュのようでもあり、そのような時代に後戻りするのではなくあくまで現在の地点から生の探索をするという決意表明のようにも思われます。そして、この作品が論理を排した草刈りという行為をめぐって描かれているということが示唆的ではあります。考えてみれば、人間が生きるということの苛烈さの前では草を刈るという行為に意味を求めるというのがナンセンスであるというようにも思えますし、そうした自己完結した行為に卑俗なレベルでの意味を超越した何かがあるのかもしれません。


「背高泡立草」には島へ向かってから帰ってくるまでの一日のことが描かれていますが、登場人物たちの行動を無駄な分析を交えないで微に入り細にわたって描写していることからは、作者が意識的にそうして、何らかの観念を浮かび上がらせるよりは生きることの営為そのものを浮き彫りにしようとしているようです。作中では過去も現在も一貫して淡々と叙述されていき、記録文学を読んでいるような感覚のうちに福岡での帰りの車中の場面になります。登場人物たちの内面描写が少ない作品なのですが、夜になってからの帰りの車中での奈美と美穂と知香の挙動には、何を言わんとしているのだろうかと考えさせられるものがあります。そこには何も特殊なものが介在していないのですが、「背高泡立草」という名前もここで登場するわけですし、その仕事が終わった後の夜の静謐の中に、生きることの難しさが集約されているように思えるのです。この作品の全体を通した滋味深さとは裏腹の深刻なテーマは、一族の草刈りという新しい切り口も相まって、人間が生きるということとそれにまつわる文学に一石を投じるものになっています。そうしたことに興味のある方は読んでみてはいかがでしょうか。


古川真人「背高泡立草」は集英社から刊行されています。


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2020年5月15日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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