実存的体験とドストエフスキー 1
こんにちは。
海藤です。
実際に大学の講義で勉強していた学生時代よりも、いい年をした大人になってからの方が、いわゆる実存的体験というものについて考えることが多くなりました。多分そうしたことは私だけに限ったことではないのでしょうが、自由意志の中で安閑としていられたモラトリアム期間から放り出されてからの方が、それまでの自分の思い込みによるところが大きかった既存の自己像を揺さぶられることが多いからだと思います。私の個人的な体験については差し控えますが、自己変革を迫られる時期というか、内発的な力あるいは社会的な力学によって、それまで自分が頑なに信奉していたセルフイメージが崩壊していくことは、社会的な庇護から放り出された後に段階を踏んでやって来るものではないでしょうか。それは程度の差こそあれ誰にでも訪れる可能性のあるものであり、野間宏が戦後に発表した一連の作品、ちょうどあんなような感じです。それは若い時から絶対視していた自らの立脚点が根本的に崩壊していく感覚であり、人によっては痛烈なまでのスピリチュアルペインを伴うものです。そのような苦しみの渦中にある時にどんな哲学や思想によって救われようとしても全くの焼け石に水であり、自己の実存的な瓦解を止める術がないというのが現実です。多分殊更口に出して言わないだけで多くの人が経験したであろうこの実存的な崩壊体験は、ある種の形而上学的なサバイバルであり、本多秋五がこの体験について「物語戦後文学史」という評論の中で端的にさりげなく定義していたのが特に印象的でした。
このような人生における喫緊の命題について考えた時に、学生時代に読んだドストエフスキーの作品が想起されるのは何となく納得がいくところがあります。「罪と罰」に開示される無神論にしても、「白痴」に描かれる不条理にしても、「カラマーゾフの兄弟」に描かれている宗教的・啓蒙的なロジックにしても、ドストエフスキーの根っこには実存的なものが確かに存在していたように感じられ、人生の途上における崩壊感覚や、形而上学的あるいは形而下のものにしても必ずと言っていいほど遭遇するであろうコペルニクス的転回というものが、恒久的・普遍的なものであることを痛切に感じさせます。ドストエフスキーの無神論や「死の家の記録」に描かれる凄絶な体験などは、皮相な観念さえも超越してしまった極北のようなものですが、卑近な人生の中にも、固着していた観念の崩壊というものは常に潜んでいるのではないでしょうか。ドストエフスキーのように形而上学的な思弁まで行ってしまうとかなり極端ですが、人生というものは「観念的な積み木遊び」とでも言えるようなところがあり、崩しては積んで、崩しては積んでといった作業を断続的に繰り返すものなのではないかと思います。人によってその作業の悲愴感や切迫感に程度の差があるだけです。