実存的体験とドストエフスキー 2
ですが、そのようなドストエフスキー的思弁で実存的体験が乗り越えられるかというとなかなか難しいのではないでしょうか。
キルケゴールが言っていたような、実存的な段階を踏んだ上で神なき深淵に佇み云々という話は、確かに啓蒙的ではありますが、もっと卑近な現実に引き寄せてみると、そのような啓蒙的な思弁さえも形而下の煩悶の孤絶が飲み込んでしまうことが多いのです。そのような近代哲学で述べられた実存的なものというのは、人生の深い部分に絡みついてきて非常に泥臭く、現代思想とはまた違った意味で難渋するものです。逆に自分が人生に即して実存的体験というものについて考えるようになってから埴谷雄高の作品を読んだ時に、皮膚感覚のようなもので内容が理解できたのはある意味新しい発見ではありました。考えてみれば埴谷雄高もドストエフスキーの影響下にあった作家でしたし、「死霊」の中に描かれる思弁もある意味幻想的なものではありますが、そこには確かにドストエフスキー的な根源的な猜疑というものがあったように思います。ただドストエフスキーと埴谷との違いは、その思想が旨としているものがカタルシスであるかプロセスであるかということではなかったでしょうか。
そのように過去に文学作品においても実存的体験は様々な形をとってその意義が模索されてきたのですが、そこには形而上学とも宗教的体験とも断言できない痛痒感が確かに存在するのです。私個人の考えでは、実存的体験というものは人生において人によっては避けられないものであり、主観や形而上学を超越した非常にぎりぎりのところを生き抜くための不可逆的なイノセンスへの回帰なのではないかと思われます。それは人生というものが、種々の観念に潤色された頭のままでは生きていけなくなる、同一性の危機に遭遇することが多いことによるものでもあります。結局は形而下のものが変遷していくように、人間の同一性の問題に基づいた形而上学もやはり変幻していくものということなのではないでしょうか。モラトリアムから放り出された途端に不可逆性の荒波に飲み込まれ、自己が完膚なきまでに淘汰されていくこと、それはある意味人生の悲劇のようでもあり、見方によっては人生の醍醐味であるようにも感じられるのです。