椎名麟三の軸 2
なぜ椎名の軸が必要となってくるのでしょうか。
平成になってからのネット社会による洪水のような情報の氾濫は、人間に機会の平等というものをある程度もたらしたものの、誰もが自己というものをとことん追求できる社会の弊害というのは確かにあるように思われます。かつて実存哲学がある意味で自我の哲学であったように、教条的な意味で言うと人間存在の根源は自己ということなのかも知れません。過剰に自己を追求することは単に社会適応の問題だけではなく、情報化社会によって植えつけられた強烈な自意識と冷厳な現実との間で精神が引き裂かれるという問題も生み出すでしょう。かつては夏目漱石も主客の分裂によって苦しんだのですから、そうした実存的な苦悶は今に始まったことではないのかも知れません。しかし現代のそういった問題は喫緊のものであり、社会構造の維持についての危険性を孕んでいるという点で、実存的な苦しみの段階にとどまっていられるような状況ではないような気もします。
第一次戦後派作家たちが焼け跡の中で標榜した精神性と同列に語ることはできないのでしょうが、価値観の激動の中にある現代の実存の問題も、似たような地点に立たされているような思いがします。ただ、人間存在の発展の余地がたくさんあった戦後とは決定的に違うのです。戦後においては実存主義文学も椎名麟三も行き詰まってしまいましたが、その時代と比べて現代のスピード社会では実存的な行き詰まりの中に佇んでいては人間を取り巻く社会全体が危ういように思えます。だからと言って、自意識に苦しむ人たちが社会に無理矢理迎合するのも違うような気がします。
そこで先ほど述べた、椎名麟三がヒントを与えてくれた、抽象的なイマジネーションとしての「軸」が重要になってくるのではないでしょうか。椎名麟三にとっての神のように、自己も社会もあらゆるものを包含した、人間心理において「それ」としか言いようのない寛容で柔軟なものを持つことが、打開策とまではいかなくてもある種の緩衝材のようになるのではないかと思います。椎名麟三は肝心なところを神に委ねてから、「邂逅」「神の道化師」「美しい女」など旺盛な創作活動を行いました。形而上のものも形而下のものも掻き抱いた、生きていく上での「軸」となるイマージュというものが、人間性、活動性の回復の一助となるのではないかと個人的に思うのです。
洪水のような情報が個々人を浸潤する現代において、アバウトながらもイマージュとしての矜持を持つことは肝要なのではないでしょうか。自己と社会についての透徹した軸を持つこと、それによって第一次戦後派作家たちの逞しい足取りに一歩近づけるのではないかと思うのです。