矛盾とかランボーとかの話 1
こんにちは。
海藤です。
二十代半ばの頃にランボーを読んだ時、門外漢のような私でしたが、若者なりの倦怠の中でのたうちまわるランボーの、これでもかと言わんばかりの抽象的な表現に刺激されるものがあったのを覚えています。フランス象徴主義というものを知ったのもこれがきっかけでした。ランボーの文学への訣別の辞とも言われている「地獄の季節」や「イリュミナシオン」などにも文学的技巧の上で大いに感化され、やがて私はとある雑誌に「地獄の季節」についての短い評論を書きました。その作品には今読むと自分でも恥ずかしくなってしまうような若気の至りや晦渋さが散見されていて、見方によってはランボーの外面的な言葉の装飾ばかりを意識して、人間の内奥に紐付けられている観念には目がいっていなかったと言えるでしょう。つまりランボーの言うような「言葉の錬金術」にばかり幻惑されていて、そこに深々と横たわっている思想には気づいていなかったのであり、今となっては若さゆえの経験値のなさだと思って恥じ入るばかりです。
ランボーとヴェルレーヌとの謎めいた関係にも、ラディゲとコクトーとの関係とはまた違った意味での葛藤や苦衷があったのでしょうが、それには学者たちが深読みすればするほど茫漠としていくようなむず痒さがあります。そもそも自分がこの年齢になって考えてみると、特に「地獄の季節」の中でランボーが反逆したり唾棄したりしていたものは一体何だったのでしょうか。そのことについては、ランボーがあまりに早熟であったという事実が非常に示唆的であるように思えます。何しろ古い時代の話なので外的条件もそれほど満たされていなかったと思いますし、才気に溢れた少年が非常に鋭敏な感性を持ち合わせたことは想像に難くありません。このことに関して椎名麟三を引き合いに出すと、何か文学というものの本質的な部分に逢着するような感じがします。椎名麟三は、意識と行為、思想と社会との間に横たわる絶望的な矛盾の問題について繰り返し書いた作家でした。つまり人間はどんなに高邁なものを抱いていたとしても現実と生活とによって絶対的に拘束されるのであり、救いようのない矛盾を抱えて生きていかなければならないということなのです。ランボーが異常なまでに早熟だったということは、こうした絶望的な矛盾を意識することについても早熟だったということであり、そのような矛盾の中における倦怠や咆哮といったものがランボーの詩作が旨としているものだったのかも知れません。
大学生の頃にアルベール・カミュの「異邦人」を読んだ時、若者だった私は布団の上で不条理文学についての感慨に耽っていましたが、最初のランボーの読書体験の時と同じく、作品の外面的な雰囲気や装飾にとらわれていて、カミュの言わんとする人間存在のぎりぎりのところを突いた思想には気づいていませんでした。私もそうだったのですが、文学作品に表現されている逼迫した矛盾の問題を理解するには、シビアな現実によるある程度の摩耗が必要とされるのではないでしょうか。極言すれば、文学ひいては人文科学の存在理由というものは、人間存在の抱える絶望的なまでの矛盾の耐え難さから来ているのかも知れません。