矛盾とかランボーとかの話 2
考えてみれば、夏目漱石にしても椎名麟三にしても、作品の中には矛盾に対する苦衷が徹底的に描かれていました。象徴派詩人のバイブルと言われたボードレールの「悪の華」にしても、象徴的なサタニズムのようなものが描かれながらも、その根底には内的なものと外的なものとの間に横たわる矛盾がありました。ジョルジュ・バタイユの一連の作品にしても、肉感的なものと思想との間の不穏なものが確かに描かれていたようです。そうした文学の根本を握っているものについて考えてみると、現代人の主観と客観の分裂の問題も浮き彫りになってきます。
外的条件が満たされていなかった昔の日本においては、国民の間に渇望のような共通理念が存在しましたが、社会制度やインフラ、コンテンツや文化といったものが徹底的に整備された現代の日本では、価値観の多様化とともに国民の共通理念が見出しにくくなった感があります。それは社会が密閉された精神空間に閉じ込められているようでもあり、煽情的な情報の大量消費も共通認識に対する飢餓感から来ているようにも感じられます。つまり、社会に閉塞感が漂ってきたことによって、個人が情報に翻弄され自分の内面と外的条件との間の矛盾に苦しむことが増えたということなのかも知れません。社会の徹底した外面的成熟によって共同体としての理念を見失い、かつては尊崇の対象であったサルトルやカミュなどの思想の世界が、ぎりぎりのところまでリアライズされてしまったのが現代日本なのではないかと個人的に思うのです。
しかし、人間の抱える矛盾の問題が具象によっても抽象によっても打開することができない本質的なものである以上、社会や個人が根っことなり得るかも知れないような原理を手探りしながら前に進んでいくしかないのではないでしょうか。文学といったものはイマジネーションを与えてくれる一つのヒントですが、社会が閉鎖空間に存在しているのであれば、情報や価値観を吟味しては投げかけるといった作業を繰り返すことによって、密閉された社会の外枠を広げていくということも一つの方法です。かつてランボーやカミュが投げかけた矛盾の世界が現代社会という大きな枠組みの中で顕現しているのであれば、その矛盾を飲み込んだ上で、人間が社会にあらゆる可能性を投げかけていくこと、そのプロセスに救いがあるのではないかと思うのです。