マルローのように戦うことについて 1
こんにちは。
海藤です。
私は日本の閉塞状況について繰り返し書いているような気もしますが、今回も似たような話になりますのでご容赦ください。そのことに鑑みて最近はアプレ・ゲールというものについて考えることがあります。安易に戦中から戦後を通した激越な時代と、現代日本の社会と精神を取り巻く諸問題とを等価に語ることはできないと思いますが、連綿とした価値の崩壊と現代のロジックの恐ろしいまでの流動性はやはり看過できない問題ですので、暗喩というぐらいの意味合いでこのことについて書いていきたいと思います。
人間存在がもともと有為転変の中にあり、波乱に富んだものであることを勘案すれば、思想というものが一般社会の位相においては時代の趨勢によって猫の目のように変わるものだというのは仕方がないことなのかも知れません。ここで重要視したいのは、そうした刹那的な商品としての思想を統轄するような、純化された人間としての根本原理です。その時々の事象に対して各人の接するメディア、そうした雑駁なもののソースとなっている中枢部のようなものが見えてこないのもある種の問題であるように感じたりもします。そのような流動性の極致を常々目の当たりにしていると、戦後の荒廃した時代の、従来の価値体系が一切通用しなくなって、庶民も知識人も政治家でさえも新たな価値観を手探りしなければならなかった世相が想起されるのです。戦後の荒野において、第一次戦後派作家たち、それに続く三島由紀夫、大岡昇平、安部公房、島尾敏雄といった作家たちが新時代の根本原理を探っていかざるを得なかったアプレ・ゲールの時代、そのような地平と確証のあるものを見出しにくくなった現代日本とがオーバーラップしてしまうのは私だけでしょうか。
ある時期を境にした価値体系の断絶というものはいつの時代でも存在しますが、日本にとってのそれは太平洋戦争の終結であり、平成になってからの失われた十年というものでしたが、欧米においてはかつて第一次世界大戦の終結を機に、ある種の彷徨であるかのように思想が揺らいだり乱立したりした時期がありました。いわゆる欧米におけるロストジェネレーション、アプレ・ゲールと言うべき存在の代表格はヘミングウェイとフィッツジェラルドでした。硬派と軟派とでも言うように対照的な二人ですが、一度崩壊した価値観を吟味したり投機したり、時には本能に傾斜したりといった創作活動をしたという点では共通項があります。戦後の時代が共通の大義を見失い、それぞれの個人が寂寥の中で迷走する光景が二人とも根っこにあったからなのでしょう。