本谷有希子「異類婚姻譚」 2
フランツ・カフカの「変身」における重要な点で、主人公が巨大な毒虫に変身したこと自体を両親や妹は全く疑問に思わないというのがありましたが、本谷有希子「異類婚姻譚」においても、主人公は夫の顔が崩れてきたことに対して超常現象のような受け取り方は全くしていません。このことが怪異譚のような一つの寓意を象徴しているのですが、本谷有希子さんが昭和文学における小島信夫のように、物語に破綻をきたさない程度に人間存在をシンボライズした作品を多く書く作家さんだという事実が物語っているように、この作品は個としての存在にとどまらず、対他的なものが孕んでいるきな臭さを全体の雰囲気を通して象徴的に匂わせたものだと言えるでしょう。この作品の辛辣でなおかつ背筋が寒くなるような不穏なエッセンスは、小島信夫的なものをもっと先鋭的にしたような感じがします。
考えてみると、現代文学をざっくりと捉えた限りにおいては、昭和文学の多くが個人の実存的な煩悶を抉るようなものだったのに対して、最近の現代文学は作品の中に主人公を捕捉する人間関係が重要なものとしてちりばめられ、そのダイナミズムの中でどのような原理が浮上してくるのかということが描かれた作品が多いという印象を受けました。特にスマホや SNS が普及してからの時代においては、この「異類婚姻譚」も含めて、他者との関係の駆け引きの中で、自己の内面を逸脱して相互依存の社会が抱える問題が浮き彫りになる作品が多いようです。その背景には他者とのつながりに腐心するあまり陥ってしまう共依存や承認欲求などの現代的な問題があるように思われます。そう考えた時に、「異類婚姻譚」に描かれる人間関係についての寓話も、相互依存社会が抱える共依存や承認欲求といった対他存在の危うさを匂わせているようです。
食うか食われるかといったテーマはいつの時代も通有のものであり、今に始まったことではないのでしょうが、それが日本の現代文学というフィルターを通した時に、直接的であるような迂遠なような何とも言えない歯痒さを伴って、不穏なアイロニーとして立ち現れてくるのです。そうしたテーマの匂わせ方には、本谷有希子さんが戯曲から出発した作家であるという事実も含めて、どこかサミュエル・ベケット的なものが感じられなくもありません。小島信夫をポップな感じにして、ベケットを多弁にしたような感じと言えばいいでしょうか。
「異類婚姻譚」の結末はネタバレになるのでここでは書きませんが、不穏でありながらもどこか洗練された余韻を残す作品です。この作品を読んだことで、昭和文学の観念的なくどさとはまた違った、清冽なストーリーの流れの中でびしりとテーマを描き出す現代文学の技巧を再認識することができました。はっとさせられることもあり、刺激を与えてくれる作品でもあります。本谷有希子「異類婚姻譚」は2016年に第154回芥川賞を受賞し、今では講談社文庫で読むことができます。