小野正嗣の「九年前の祈り」1
こんにちは。
海藤です。
今回は2015年に第152回芥川賞を受賞した、小野正嗣の「九年前の祈り」という小説について書きたいと思います。内容を大まかに言うと、さなえという35歳の女性がフレデリックというカナダ人の夫に捨てられて、幼い子供を連れて故郷の海辺の町に帰ってきて、父母と一緒に実家で暮らすようになるのですが、そうした生活の中で、若い頃に団体旅行で一緒にカナダに行ったみっちゃん姉という初老の女性の息子が病気で手術をして入院していることを知ります。そこで父母と一緒に大分の病院にお見舞いに行く直前に文島という島でみっちゃん姉のために貝殻を拾おうとさなえは思い立つのです。文島に到着してから、そして行き帰りの船内で、ここに至るまでの様々な経験、障害を抱えた息子への思い、フレデリックとの出会いと別れ、カナダ旅行での精神的な体験などが現在と交錯して去来します。ラストに「九年前の祈り」という題名の意味が明かされます。
通読した感触からすると、大学教授の先生が書いた作品という表面上のことに反して、衒学的な解釈が通用しないぐらいにナイーブで、人間が生きるということの悲しみを修辞的な装飾なしに非常に感覚的な筆致で包み込んだ作品であると感じました。ロジックを弄して頭で考えて理解するようなものでは決してなく、読者が人生で感得してきた皮膚感覚で感じることができるもののように思えます。「引きちぎられたミミズ」のように騒ぐ障害のある息子を、さなえが嫌悪しながら育てて、心のどこかで自由になりたいと思っていること、実家に帰ってきてからの父母との折り合いの悪さ、みっちゃん姉が障害のある息子に対して抱いている愛情と表裏一体の複雑な思い、これらの人間描写の底流にあるものは決して特殊なものではなく、平凡に生きている人々でも誰もが抱えているような、言語化のできないような悲壮感なのです。「九年前の祈り」の作中では「悲しみが背後に立っている」という表現をしていますが、それは百人百様の業を背負って生きている人々が、その悲しみの本質に深い部分では薄々と気づいているのですが、その本質の声に耳を傾けてしまったら何かが終わってしまうと感じている人生の悲劇を示唆しているのでしょう。
昔に読んだ芥川賞受賞作の、堀江敏幸「熊の敷石」も大学教授による作品でしたが、読んだ時は茫漠としたような感覚に包まれた思想という感じを受けました。しかしこの小野正嗣「九年前の祈り」に関しては、主人公のさなえとみっちゃん姉とをつなぐ紐帯が、本質を遠まきにしながら自戒と怯懦の中で歩んでいくすべての人の人生を象徴しているように思えるのです。つまりそこに一切の論理や尺度はなく、偶像崇拝さえも超越した切実な祈りが存在するだけなのです。思想や文学論と別次元のものといえばいいでしょうか。つまり、かつての深沢七郎「楢山節考」のような表現を、逡巡しながら一つの香気として核心を匂わせるものに深化させた作品であるという印象を受けるのです。この匂わせるという表現方法が非常に現代文学的なところではありますが、その存在の核心を読者が感得するにしてもしないにしても、生きることという摂理が何か不変のものを内包していてほしいという祈りのようなものを、作者はこの作品に仮託しているような思いがします。