小野正嗣の「九年前の祈り」2
さなえが文島に着いてからの疾風のように繰り出される幻想的・抽象的な描写は、人生において安息への願望と不安との狭間でもがく人々の縮図のようです。文島における揺れ動く精神体験の渦中で、さなえは人と感性が違う自分を問題視するようなことを思っていますが、人間であるがゆえのじわじわとした悩乱は何もさなえのような人間に限ったことではなく、幸せそうに見える人でもそうでない人でも、誰もが空気のように感じていることではないでしょうか。さなえは感覚が鋭敏であるがゆえに、ありのままの世界を甘受することができにくいだけなのだと思います。
とにかく徹頭徹尾この「九年前の祈り」は、対自存在、対他存在、存在論、実存などといった物差しとは違うフィールドに存在する作品のようです。作中では人生において不気味に浮かび上がってきた本質への忌避といった状態に足を踏み込むようになったさなえの先鞭をつけているかのように、カナダ旅行での心のつながりという前段階があった上で、似たような境遇のみっちゃん姉という初老の女性が象徴的に描かれています。現在のみっちゃん姉の描写は一切ないのですが、そのことがさなえとのカナダ旅行での心のつながりとの相乗効果で、読者に非常にアンニュイなものを喚起します。首尾一貫してみっちゃん姉は、本質の正体である悲しみによって崩れそうになるさなえをある種のイメージとして支える存在になっています。人間は対他存在として難渋することも多いのですが、他者の存在がシンボリックな意味で人間の立脚点の脆さをカバーしてくれることもあるのかもしれません。
現代文学は寓話的なシニカルな作品も多いのですが、小野正嗣「九年前の祈り」に関しては、どちらかと言うと陰影深い作品で明るい作品ではないのですが、救われなさの中でイメージとしてのみっちゃん姉と「祈り」という行為がシンボライズされていることによって、存在の脆さを優しく包み込んでくれているような感触があります。その中には救われるか救われないかという問題とは別の次元に深々と横たわっているようなものが感じられます。過去と現在が交錯する中でのさなえの短い時間内での魂の遍歴は、心の傷にしても障害のある息子のことにしても、決して救いという形式につながることではないのでしょう。しかし意識が現在に戻ってからのラストシーンでは、微弱ながらも何かが見えてきます。そんな感動を与えてくれる作品です。