滝口悠生「死んでいない者」 2
この作品では、死者を中心にして集まった親族たちが抱く鬱屈した感情や根源的な不安と伴走するように、人間の愚かな性情に対する皮肉も随所に描かれます。この作品の会話の中でも描かれますが、まともだとか負け組だとか、おそらくどのような一族の中でもささやかれるような、人生がうまくいっていないものを嘲る人間の意地悪さなどは代表的なものです。また、親子間、家族間の問題もこの作品では痛烈に描かれており、作者は観念小説のような心理学的な踏み込み方は一切していないのですが、たとえ家族であっても、本当の意味でお互いの心が溶け合うことは不可能に近く、人間同士である以上やはりぎりぎりのところで距離をとって付き合うしかないというシビアな現実も表現されています。
著者である滝口悠生さんの年齢も関係しているのかもしれませんが、作中では親族たちのそれぞれ抱える人生の事情を大人に引き寄せて描くのではなく、故人の孫やひ孫たちのシニカルながらも融通無碍な振る舞いを通して浮き彫りにされています。年上の孫が故人の家の庭のプレハブに住んでいて無職であったり、ひ孫たちは両親に捨てられていたり、高校生の孫たちは通夜の間ずっと酒を飲んでいたりと、彼らは若いながらも辛苦を味わっていて、それでも痛快なカオスとでも言うべきもので、大人たちに対してアイロニカルでこれ以上ないぐらいに自由闊達です。通夜会場からほとんどの子どもたちが故人の家に引き上げてきて、そんなに接点のある関係でもなさそうなのに年上の孫を中心に和気あいあいとまとまってしまう場面では、救いのようなものを感じます。一人の女子高生の孫の行動が特に前面に出されていますが、彼女は作中の狂言回しのような役割であるようです。彼女は故人の庭のプレハブに住んでいる孫の妹ですが、いろいろと辛辣なことを考えながらもあまり深いことは考えていないような彼女の言動からは、自由に行動する孫たちの中心にいる存在として描かれていることも相まって、リアリスティックなものもイノセンスも引き受けたような、この作品の救いを象徴する存在感のようなものが感じられます。
現代の世相を反映しているかのように、前半では大人たちのシビアな不安が表現されているのですが、後半は子供たちの生きることの苦さをそれなりに咀嚼した上での、若々しいイノセンスが中心になっています。それでいて大人たちも子供たちも、この通夜の一夜を通して何か新しい価値観を見出したわけでもないのです。むしろそこが人間くさく、どちらかと言うと親族のそれぞれが抱くとりとめのない想念に主軸が置かれているようにも思われ、心を洗う悔悟のようなものがないことが生きるということそのものなのだと考えさせられます。
ラストの方で年上の孫がインターネットの動画サイトにアップするために故人の好きだったテレサ・テンの歌と周りの音を録音したりするのは、親族たちが共通のイメージを見出すというきれいごとではなく、大上段に構えたような深い意味を持たない何気ない行為なのでしょう。子供を置いて行方不明になった孫が最後まで姿を現さないことも、故人の生前の描写がわずかしか描かれないことも、最後のカタルシスに向けて、理屈を超越したものを、生きている者たちの物語として、「死んでいない者」というタイトルの通りに、イマジネーションとしてふわりと浮かび上がらせるためなのでしょう。この作品もまた多くの現代文学のように、人間の生をロジックではなくイメージとして感じさせてくれる秀逸な作品だと思います。通夜の一晩の間に起こる人間くさい想いや出来事の数々は、非常に感覚に訴えてくれる醍醐味があります。