高橋弘希「送り火」 1
こんにちは。
海藤です。
今回は2018年に第159回芥川賞を受賞した、高橋弘希「送り火」という小説について書きたいと思います。石原慎太郎「太陽の季節」や村上龍「限りなく透明に近いブルー」などのように、若年層特有の心理や生態にフォーカスした作品ですが、ビートニク的な青臭さとは違い、じわじわとした不気味さが真綿で首を絞めていくように描かれ、陰惨な心理が徐々に輪郭を帯びてくるという構成になっています。
作品の梗概を述べさせていただきます。中学三年になる歩という少年が、父親の転勤で北地の廃校寸前の中学校に転校してきます。そこで晃や稔といった同級生たちと出会い、万引きやしゃれにならないような危険な遊びなどの、思春期特有の危ない橋を渡るような彼らの中に溶け込んでいきます。晃は稔の頭に大怪我をさせたことがあり、花札でイカサマをしていつも彼を負けさせて危険なことを強要するのです。季節が移り変わっていく中で、平均的な中学生である歩は少年から大人への過渡期にある晃のメンタリティの危険な香りと付き合っていくのですが、田舎の集落で流れる風景とともに、禍を追い払うために川に灯籠で火を流すしきたりなどの因習めいたものが、思春期の暴力的で危うい心理との相乗効果で、不吉な感じで描き出されていき、凄惨なラストへとつながっていきます。ネタバレになりますので、ストーリー展開の肝心な部分はここでは書かないでおきます。
全体を通した作品の雰囲気としては、村の民間伝承の不吉さとともに、思春期の残酷な心理や暴力が輪郭を帯びてくるサイコホラーのような感じです。こうした題材の文学は、人生全体、人間全体を鳥瞰するような総合的なものとは違い、精神的、肉体的な過渡期にある思春期の異常心理にフォーカスしたものであるだけに、彷徨の果てに何か突き抜けたものが暗示される作品ではなく、救いようのない暗渠のようなものを感じさせるのは確かです。稔をいじめたかと思うと庇ったりする晃の心理などは不可解ではありますが、成熟した大人になった人たちでも、決定的な逆説と自己矛盾の中で生きている思春期の精神状態というものは、感覚的なレベルで思い当たる節があるのではないでしょうか。中学生というある意味あやふやな足場においては、暴力的な晃、卑屈な態度をとる稔、当たり障りのない対応をする主人公の歩、傍観しているようなその他の男子生徒などの人間関係の力学は、子供としても大人としてもスタンスが定まっていないがゆえに、粋がっているようで非常に脆弱な矛盾を孕んでいるように考えられます。思春期に特有な状態として、ちょっとした歯車の狂いから、昨日白だったものが今日は黒に変わってしまうなどということがよくあります。この作品で大人たちが背景のようになっていて、寂れた集落の環境に抑圧された少年たちの不吉さを帯びた暴力性が、前景として描かれていることがある意味重要で、高橋弘希さんが少年たちの飢渇した心理を通して抉り出そうとした大きなものを斟酌することが、読み進めていく上で大事なのでしょう。