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高橋弘希「送り火」 2

この「送り火」は、芥川龍之介の「藪の中」ではないですが、少年たちが本当は一体何を考えていたのかということが、ラストの陰惨さのままに謎として残されてしまう作品です。ラストまでの多くの不吉な伏線は果たして何だったのか、思春期の通過儀礼のような心理状態を遠く離れた大人たちに、少年少女の頃の記憶を手繰り寄せて考え込ませてしまうだけの深い闇をもった作品であり、暗渠に頭を突っ込ませるスリリングさがあります。高橋弘希さんの重厚さとともにある若々しい感性によって、人間存在にとっての大まかな原理を浮かび上がらせるというのではなく、安部公房や大江健三郎の作品のように、救いようのない展開から読者の各自の思考と主体性に委ねるというものになっていると思います。最近の現代文学なのですが、そういう意味ではこの「送り火」という小説は、昭和の文学に近いと言うか、大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」を想起させるものがあります。


それとこれはラストの凄惨さの中で中学校の卒業生である男の発した言葉に集約されていると思うのですが、何の娯楽もない閉鎖的な田舎の集落での鬱積した感情は、ある程度拡大解釈をさせてもらえば、生きるということが本来出口のないフラストレーションとともにあることであり、安住というものが本質に背馳した幻想であることを示唆しているように感じられるのです。東京から来た少年であり、中学を卒業すればさっさと首都圏に戻れると思っていた歩が感じるラストの絶望などが、そのことを裏打ちしているように思えてしまうのです。その行き場のなさを物語るかのように、歩、晃、稔、その他の同級生たちの一体誰が悪かったのか、間違っていたのか、そもそも思春期の焼け付くような状態に正解などあるのか、そのようなことについて歩の臆測のみが描かれて、闇の中に頭を突っ込んだように物語は終わっています。不気味な環境下での中学生たちの行状を通して、思春期の暴力性や、強がった態度、対他関係の不穏さといったものが、確かな輪郭や実体を持ったものではなく、熱病のような幻影なのだろうか、そんな疑問を喚起させる作品がこの「送り火」だと言えます。大人になるにつれて躊躇したり葛藤したりしながら分別をわきまえていって、生きるために落とし所を探っていくのが人間なのかもしれませんが、この作品は大人のそれとは異質な非日常的な緊張感に読者を引き戻すような力を持っていると言えます。作中に込められている謎を最後まで読者に考えさせるという意味で、カタルシスとは違った異色の読書体験ができますし、遠い日のひりひりするような感覚を追体験できるという醍醐味もあります。高橋弘希「送り火」は文藝春秋から刊行されています。



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2020年9月19日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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