町屋良平「1R1分34秒」 1
こんにちは。
海藤です。
今回は2019年に第160回芥川賞を受賞した、町屋良平「1R1分34秒」という小説について書きたいと思います。この作品は、デビュー戦を初回 KO で飾ってから敗けが込んでいる21歳のプロボクサーが主人公で、彼は最初の頃のような情熱や希望を失っていて、事前に対戦相手の SNS や映像をチェックして、それによって相手とイメージ上の友情を結び、夢うつつの中で睦み合うことによって自分の心を慰めています。しかし、夢の中で友達になっていた青志くんという対戦相手に敗れてから、機械的に練習をこなしていた態度からさらに無感動で虚無的になっていきます。夢と睦み合うこともできず、希望も持てない状況の中で、ネガティブな想念ばかりが頭の中を駆け巡ります。映像作家志望の大学生の友達と無味乾燥な態度で芸術に触れたりする日々の中で、ウメキチという人物が彼の新しいトレーナーになるのですが、ウメキチは主人公のボクサーとしての特質や性格の癖などを見透かしており、そこから観念の陋屋に閉じ込められていたような状態が徐々に変化していくのです。そのようにプロボクサーの絶望と焦燥、記憶や夢想の中に佇んでいた状態から、自分を取り戻していくプロセスを描いた秀作です。
作中にはボクシングの専門用語がちりばめられていますが、そのような知識がない読者でも、ボクシングの様々なハードワークによる緊迫感を通して、突き抜けることができない中で精神を修正していかなければならない、生きることの熾烈さが感じられる作品になっています。ボクサーというと鍛え上げられたメンタルを持っていると勝手な先入観を持ってしまいがちですが、実際にボクシングの経験者である町屋良平さんが書いたこの小説は、ボクシングというスポーツが閉塞感の中で自分を追い込み、孤独と向き合わなければならないものであることを生々しく描き出しており、敗けが込んできた時には、逼塞した空間の中で鬱屈した感情と向き合わなければいけないということを示しています。ボクサーとしての自分に理想を見出せなくなった主人公は、人間関係も不自然になり、記憶と夢の残滓の中で何かに甘えるような生活をするのですが、突き抜けなくなった自分に対して自信を失い、夢と現実の境目を失い、物事の良否のわからない矛盾の中に身を置く態度は、人生においてある精神の境界を越えた人間なら誰もが抱えるような閉塞感なのかもしれません。ここで境界というのは、理想というものが確信的な観念であるか虚妄であるかの境目という意味で、人生経験の多寡に関わらず、理想に対する信奉の瓦解は遅かれ早かれどのような人でもやって来るものではないでしょうか。
石原慎太郎「太陽の季節」におけるボクシングが無軌道とアンチモラルのエッチングとして使われていたり、吉村昭「鉄橋」におけるボクシングが観念小説の書き割りのように使われていたのとは違い、この「1R1分34秒」においては、人間が概して繊弱なものであり、いつまでも虚妄を盲信することができない非常に輪郭の濃い存在であることを突き詰めるための必須条件としてボクシングがあったのではないかと思うのです。主人公の唯一の友達である芸術家志望の大学生との交流などには、安易に情緒に傾かないだけの虚無と、それを空気のように包んでいる切なさと甘酸っぱさがあります。この奇妙な友情の示唆するものは、希望を失った主人公がボクシングの人間関係に疲れ果てたことも加味して、八方塞がりになった状況の中で、人間の繊細さ、弱さを見すくめるセンチメンタリズムなのではないでしょうか。