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町屋良平「1R1分34秒」 2

精神的な苦闘を経て主人公が到達した心境についてはネタバレになるのでここでは書きませんが、唐突に急造のトレーナーになったウメキチとの出会いによって、的確ながらも風変わりな指導を受けて、心の駆け引きとの相乗効果で不敵なメンタルを身につけていく描写は、名伯楽との邂逅などという甘ったるいものではなく、シニカルながらも焦げ付くような人間関係の折衝を象徴しているといえます。したたかに見えたようなウメキチが実は主人公に複雑な嫉妬にも似た感情を抱いており、彼もまた二律背反の弱さを抱えた人間であったことは、この作品の全体ににじんでいる突き抜けられなくなったがゆえの矛盾、人間はその矛盾の中で試行錯誤しながら前に進んでいくしかないというシビアなメッセージを物語っているように感じられます。


青志くんとの試合に敗けた後、肉体に痛みが残っているうちはまだ自分の心を慰められるという主人公の心境は、遅かれ早かれ痛痒感の中で生きるしかない人間の切なさを表現しており、ジムに見学に来た女の子と虚無的な関係を持つことも、行き詰まりに頭を突っ込む強さとともにある人間存在の弱さなのではないでしょうか。この町屋良平「1R1分34秒」ではウメキチ以外の登場人物に主人公も含めて名前が付けられていませんが、そのことが全体を通した悲壮感のあるニヒリズムも手伝って、人間の抱える悲しさを抽象的に提示することにつながっています。


遊びに行く先々で主人公が自分のことを語ったりシャドウをしたりするのを iPhone で撮影する大学生の友達との関係は、ラストでの主人公の厳かな目覚めを際立たせる装置になっていますが、そうしたことも含めて、孤独と夢想の中に佇んでいた主人公を、理屈で説明できない具体性の中に引っ張り出したものが、結局対人関係であったということになるのでしょう。人間関係があるから矛盾が存在するのも確かなのですが、個人の観念的なものと対他的なものとは相互扶助の関係にあるという現実に帰着するのではないでしょうか。そういうことを加味すると、この「1R1分34秒」という作品は、ボクシングという肉体的なものに着想を得ながらも、非常にナイーブな観念小説になっているという点で、ユニークな純文学だといえます。リングに上がっている時の描写には文章に疾走感がありますし、それと対照的なナイーブな心理描写もあるので、スポーツを題材にした純文学の中の白眉なのではないでしょうか。次の試合を前にして主人公が到達した心理もまた一筋縄ではいかないものなのですが、ギラついた中に人間にとっての本来的なものを開示してくれるような作品ですので、緊張感のある読書体験がしてみたい方は一読をしてみてはいかがでしょうか。


町屋良平「1R1分34秒」は新潮社から刊行されています。


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2022年1月20日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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